論議はそれから数年続いた。その間、ホーキングはソ連(当時)の物理学者と議論し、次第に考えを変えていった。ポイントは極微の理論である量子力学だった。その特徴である不確定性によるゆらぎが主人公である。

 74年から76年にかけて、ホーキングはブラックホールの常識をひっくり返すとんでもない論文を出し始めた。地平面近くでの量子力学的なゆらぎにより一対の粒子と反粒子が生まれ、それがブラックホールの強力な重力で加速、地平の外側にある粒子は飛び出していき輻射となる、というものだった。これが続けば、ブラックホールの質量はどんどん減り、最後にはなくなってしまう。つまり蒸発する、というのである。

 輻射の存在は、ブラックホールがエントロピーを持ち、有限の温度も持っていることを示している。詳しい計算で、エントロピーは地平面の面積で表されることがわかった。ホーキングはこんなアクロバット的理論で「ブラックホールの熱力学」を創始した。これは彼の最大の功績とされ、88年に書いた『ホーキング、宇宙を語る』の中でも、最も熱の入った語り口だ。

 もっとも太陽程度の質量のブラックホールが蒸発するのにかかる時間は宇宙の年齢をはるかに超えるため、理論の確認は難しい。「理論は正しいとほとんどの物理学者が認めているのにノーベル賞がもらえないのは、実験での確認はとても難しいから」と、ホーキング自身が自伝に書いている。

 さらにホーキングは、量子重力理論に基づいた宇宙の起源と終末について、あるいは宇宙的な時間について研究を進めた。これらは難問で完成には程遠いが、その方向で「この世界を説明する究極の理論はできるはずだ」と主張してきた。

 彼の病の進行は、他のALSの患者よりかなり緩慢なものだった。それでも呼吸のための気管切開で言葉を発することができなくなり、最期は指や頬、あるいはまぶたのかすかな動きがすべてだった。最新式のスピーチシンセサイザーや電動車いすなどの最新技術で支えられても、普通の人に比べれば限られた世界だった。

 精神の自由さに支えられた行動力は素晴らしいものだった。旅行は南極やゼロGの世界にまで及んだ。頭の中で世界を描きながら方程式を組み立てられた。

 ホーキングのたくまざるユーモアは有名である。たとえば自分たちの研究活動について「賭け」をしたのは有名だ。物理学者のキップ・ソーンとは「白鳥座X-1にブラックホールがあるかどうか」「宇宙に裸の特異点を作れるかどうか」などについて賭けをしたが、どうも負けばかりだったようだ。「すべてが正しい」というわけではなかったのは、とても人間らしい。(敬称略)

(科学ジャーナリスト・内村直之)

AERA 2018年4月30日-5月7日合併号