近代産業の黎明(れいめ)期でもある明治維新。既得権益層が没落し、新興勢力が躍り出る激動期は、未曽有のビジネスチャンスでもあった。
* * *
幕末・維新の激動期。新時代を模索していたのは士族だけではなかった。商人たちも、次の時代を見据えていた。
三菱の創業者・岩崎弥太郎に転機をもたらしたのは明治政府の派兵事業だった。佐賀の乱の際、三井系の資本も入った海運会社が、政府の厚遇にもかかわらず、協力要請に消極的な態度を見せた。大久保利通は激怒し、商船徴用を三菱に依頼して、反乱を鎮圧。台湾出兵の際も派兵業務を担い、さらに西南戦争では政府が使った戦費約4200万円のうち約340万円が三菱に支払われたという。政治上では立憲同志会、憲政会、立憲民政党と結んでいた。
江戸の豪商だった三井は、幕府からの法外な御用金に悩んでいた。薩摩と長州が倒幕に動き出す頃、各所に隠密を放つなど情報収集に努め、薩長側につくことを決意。維新後は新政府の発行する太政官札の流通を請け負い、1876年には日本初の民間銀行である三井銀行を設立するなど、金融や貿易の分野で活躍した。西郷隆盛から「三井の大番頭」と揶揄(やゆ)された井上馨(かおる)が下野時に設立した商社を引き継いで三井物産を設立。社長となった益田孝は、三井の近代化を推進していく。政治上では伊藤博文の立憲政友会と結んだ。
三菱重工に勤務する30代後半の男性は、入社式でスリーダイヤのピンバッジを渡され、「これをなくしたら始末書だよ」と言われたのを覚えている。
「他社の車に乗っていたが肩身が狭くなり三菱の車に買い替えた先輩がいた。社報には岩崎弥太郎の話がよく出てきます」
一方、三井物産に勤務する40代の男性は、こう話す。
「三井家の菩提(ぼだい)寺である京都の真如堂を訪れる新人研修があります。益田孝が旧三井物産を創業した経緯など、三井の歴史を学ぶ研修もあります」