批評家の東浩紀さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。
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仮想通貨が世間の関心を集めている。国内大手の取引所コインチェックから1月26日未明、不正アクセスによって580億円相当の仮想通貨NEMが流出、その後の説明も不透明で混乱が続いているからだ。
仮想通貨の技術はすばらしい。通貨は信頼によって成立している。従来の通貨においては、その信頼は各国の中央銀行が支えていた。ところが仮想通貨を生み出した「ブロックチェーン」という技術は、その信頼を匿名の計算機の集合で生み出してしまう。この仕組みを使えば、中央銀行のような権力に頼ることなくだれでも通貨が発行できる。これは画期的な技術で、たしかに社会のありかたを根底から変える可能性を秘めている。
ところが今回明らかになったのは、そのすばらしい技術を肝心の人間がうまく使えていないという、じつに残念な事実である。むろん、事件でまず責められるべきはハッカーで、次に非難されるべきはセキュリティー対策を怠ったコインチェック社であろう。しかし問題はそこにとどまらない。より本質的な問題は、今回の騒動が、仮想通貨の技術が現実にはなんら新しい社会関係の創出に結びついておらず、むしろ射幸心を煽(あお)る新手のギャンブルを生み出すものでしかなかったことを露呈したことにある。
仮想通貨の取引はたしかにこの数年で急成長している。通貨の数も増えている。けれどもそれが通貨として、つまり商取引の媒介として使用される機会はたいして広がっていない。それは当然のことで、こんな相場が不安定なものを支払いに使う消費者がいるわけがない。つまり仮想通貨は、技術面では革命的だったにもかかわらず、貨幣として流通するために必要な安定性を得ることができなかったのだ。というより、それを得るまえに、投機の熱狂に巻き込まれてしまったのである。
この顛末(てんまつ)はぼくにはネットの歴史の圧縮版のように感じられる。ネットも当初は、人々の交流を支援し、新たな公共圏を生み出す画期的な技術として期待されていた。現実にはご存じのとおりである。情報技術は、総じて人類には早すぎるのかもしれない。
※AERA 2018年2月12日号