
「ステージ2の乳がん」という診断を受けたのは37歳のとき。複数の近親者が同じ病で亡くなっていた。
「自分も死ぬんだ」
目の前が真っ暗になった、と桜井なおみさん(50)は振り返る。
都市計画のコンサル会社に勤務して13年目。都内の再開発など大きな仕事も任され、充実した日々を送っていた。
「えっ、この生活を取り上げられちゃうの?」
ただ悔しかった。
復職したのは9カ月後。直面したのは「元には戻れない」という現実だった。
手術の後遺症で利き手の右腕が思うように動かず、デザイン設計に不可欠なCADのマウス操作がうまくいかない。午後3時ごろにはコップも握れないほど力が尽きた。それでも仕事は待ってくれない。周囲は「完治したから復職した」と捉えていたが、通院治療は退院後も7年間続いた。
医師には「術後の5年生存率は6割」と宣告されていた。上司に「工程のめどが立たない人間を雇えない」と言われたとき、確かにそうだと腑(ふ)に落ちた。職場に居づらくなり、復職から1年半後に辞職した。
だがこれは、桜井さんにとって最悪の選択だった。
一日中家の中にいて誰とも話さない毎日が延々と続く。仕事は自分のアイデンティティー。社会とつながる唯一の手段だった。それなのに、自分から捨ててしまった。
後悔を募らせていたとき、患者仲間だった年上の女性が40歳で亡くなった。新聞記者で、末期の肺がんを会社に告げずに、亡くなる数日前まで出勤していた。鎮痛剤の副作用で突然眠りに落ちることもあった。職場では「眠り姫」と呼ばれていた。
桜井さんは、この女性が病院で息を引き取る瞬間にも、火葬後に遺骨を骨壷に納める「骨上げ」にも立ち会った。女性の上司は葬儀の場で「俺が殺したんじゃないか」と後悔し、父親は「盆や正月も帰省せず、忙しく元気でやっていると言うので信じていた」と泣き崩れた。
病気を会社に申告するとやりたい仕事から外される、と生前桜井さんに漏らしていた女性のスケジュール帳は、死後も仕事の予定で埋められていた。1週間後はない、とわかっているのに予定を入れていく。この気持ちって何だろう。社会参加って、仕事って何だろう。シンプルにこう思ったという。