評論家の西部邁さん(78)が1月21日早朝、亡くなった。東京都大田区の多摩川に自ら身を投じた。右派にあって保守思想を説きながら、思想の壁を乗り越えて左派とも論じあった思想家は、どう生きたのか。ジャーナリスト桐島瞬が取材した。
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「a few weeks」
年明け、西部さんに近い知人は、日本語で「数週間」を意味する言葉を本人から聞かされていた。
東京工業大学教授で西部さんと師弟関係にある中島岳志さん(42)は、そのときの様子をこう振り返った。
「1月5日に仕事の打ち合わせでお宅にうかがった際、集まった人たちの前で『a few weeks』と言われたのです。先生は病院で死なずに元気なうちに自ら命を絶つ『自裁死』を選ぶと以前から決めていて、昨年になっていよいよだということで死に方を含めて聞かされていた。そのため、『数週間』が何を意味するのかすぐに分かりました」
昨年後半、実行を一度延期したことを聞いていたため、次回に会う時がお別れの会になると気づいていた。
「会ってしまえば自死を後押しすることになる。とはいえ、行かなければもう会えないかもしれない。会いたいけど会いたくない複雑な気持ちでした」
頸椎(けいつい)からくる腕の痛みがここ2、3年激しくなっていた。西部さんの著作の装丁などを担当し、25年以上の交流がある芦澤泰偉さん(69)が言う。
「頸椎を痛めたのは4年ほど前。先生はリビングルームに製図版を置き、一心不乱に原稿を書き連ねるタイプ。こうした長年の蓄積が首に負担をかけ、両手が冷えと痛みに襲われるようになりました。活動は以前通りでも、家でも常に手袋と赤外線ヒーターが欠かせず、外で講義中に激しい痛みに耐えきれず途中で帰ってくることもありました」
最近は痛みから字が書けなくなり、昨年12月に出版され、遺作となった『保守の真髄 老酔狂で語る文明の紊乱』(講談社現代新書)は、娘の智子さんに語りかけるという、口述筆記でまとめられた。