批評家の東浩紀さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。
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年が明けた。今年2018年は明治維新から150年にあたる。論壇では明治再考企画が林立することになるはずだ。
明治再考にはたしかに大きな意義がある。しかしそれが、従来の明治のイメージをなぞるだけでは退屈だ。
本欄で繰り返し指摘してきたように、日本の政治は、現代日本の起点として、憲法9条をもつ戦後日本と近代化をなしとげた明治国家という二つの対立する(といまは多くのひとに思われている)アイデンティティーのどちらを選ぶか、その選択を軸に展開している。戦後を選ぶのが革新・護憲勢力であり、明治を選ぶのが保守・改憲勢力である。よく言われるように、いまの日本では革新こそが保守的で、保守こそが改革的であるという政策上のねじれが起きている。それは保革対立の根っこが、そもそも政策にではなくアイデンティティーにあるからこそ生じている。その対立は、今年、憲法改正の国民投票発議を控えて、ますます先鋭的になることが予想される。
しかしその対立は本当に生産的だろうか。すべてが戦後か明治かの対立に還元される現在の政治状況は、むしろぼくたちから現実への対処能力を奪っているのではないか。明治150年のお祭りに関わるすべての言論人は、その懐疑を胸に刻まなくてはならない。
文芸評論家の加藤典洋氏は新著『もうすぐやってくる尊皇攘夷思想のために』(幻戯書房)で、排外主義的ナショナリズムを乗り越えるためには、護憲を叫ぶだけでなく、「300年のものさし」が必要だと喝破している。まったく同意である。戦後か明治かの選択こそが、ぼくたちを無力にしている。
ぼくはかつてフランス哲学を専攻していた。だからルソーのフランス語が読める。けれどもルソーの同時代人である本居宣長の日本語は読めない。それが日本の「リベラル」の多くの限界であり、それでは保守にも海外思想にも負けるに決まっている。
「300年のものさし」をもった日本のリベラル思想をつくることができるか。これから数年はそれが問われる時代になるだろう。新年の挨拶として、自戒を込めて記しておきたい。
※AERA 2018年1月15日号