私は日本の男性社会の中にいるよりヨーロッパで実験したり議論したりしているほうがよっぽど楽しいと思っていましたが、彼は私が海外出張するのをとても嫌がった。子どもはできなかったし、彼が東京から遠い大学で職を得たのをきっかけに別れました。そのあと、割とすぐに彼が結婚したので、私はホッとしました。

 でも、よく考えたら、何も健康保険のことを私が考えなくてもいいんですよね。「自分で考えろ」でいいはずなのに。私はいつも男の人を養っちゃう。それで、相手が駄目になっちゃう。2度目も同じことをやったんですね(笑)。

――2度目の結婚はいつですか?

 45歳ぐらいです。ぜん息で夜眠れなくて、明け方からパソコンで論文を読み、合間にチャットをしていて知り合ったんです。たまたま彼は埼玉県の所沢市に住んでいた。「近いね」と言って会うようになり、2004年に救急車事件が起きた。運び込まれた病院の先生が母に連絡を取り、「彼氏っていう人と運ばれてきました」と伝えたそうです。

 肺塞栓で酸素が足りなくなって心臓が相当に肥大していたようですが、薬だけで治っていきました。ところが、今度は母に進行した乳がんが見つかり、私が退院した次の次の日に手術をした。それで母の付き添いでまた病院通いです。

■母と祖母、兄の看護と介護で駆け巡った

――お母さまは仕事をされていたのですか?

 はい、高校の英語教師でした。父は高校の数学教師でした。母は一人っ子で、私たちは東京の初台で母の両親と同居し、私と兄は祖父母に育てられた。兄は子どものころにリウマチ熱にかかって、体が丈夫でなく、就職しても長続きしませんでした。

 両親は私が高校生のころに我孫子に家を建てて祖父母の家から出ましたが、兄は初台に残った。祖父が亡くなったあとは、祖母の面倒を独身の兄が見てくれた。でも、収入がないので、一時期、私がその家の地代を払っていました。

 2009年の1月に祖母が103歳で亡くなり、同じ年の9月に母が77歳で亡くなりました。その2年余りあと、兄が54歳で亡くなった。兄は病気がちだったので、私が大学病院に連れていったりしていましたから、母のがんがわかってからの数年は母と祖母、そして兄の看護や介護で大変でした。一番ひどいときは、3人が別々の病院に入って、3カ所を駆け巡った。

 正直に言うと、2012年に兄が亡くなったとき、これは仕事に専念しなさいと神様に言われたなと思いました。

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2度目は17歳年下、事実婚を選んだ