徳田は、小学3年のときに弟を病気で亡くしている。島の医師に往診を頼んだが、来てもらえず弟は死んだ。弟の死への「怒りと悲しみ」を度々口にし、医療過疎地の奄美群島に総合病院を建て、離島医療に貢献したいと唱える。その発想は医師偏在に視点を置くとマーケティングの理にかなっていた。

 都市の医療砂漠は、自由に開業したい医師側の都合で生じたものだ。そこに暮らす住民は病院を渇望していた。潜在的な医療ニーズは高かったのだ。

●借り入れが頼みの綱、徹底した低コスト主義

 徳洲会は、医療の供給側ではなく、住民ニーズの側に立っていた。これは医療観のコペルニクス的転回をもたらし、スタートダッシュにつながる。

 大阪府の岸和田市、八尾市、沖縄本島南部の東風平町(現八重瀬町)と徳洲会は用地を確保し、病院の建設を進める。資金面で打ち出の小槌を持っていたわけではない。金融機関からの借り入れが頼みの綱だった。それなのに次々と病院を建てられたのは「低コスト主義」を徹底していたからだ。

 八尾徳洲会病院(現八尾徳洲会総合病院)と、ほぼ同時期に開院した埼玉県の越谷市立病院の建設費を比べると違いが明らかだ。どちらも当時約300床で、八尾病院の建設費は16億5千万円。越谷市立病院は69億7千万円。4倍以上の開きがある。

 徳田は、低コストのカラクリをこう語っている。

「僕に言わせれば、市立病院は市民のためのものではなくて、働く職員のためということです。デラックスで広々とした院長室、副院長室、総婦長室、外科医長室……これらはことごとく、患者にとっては無縁の設備ですよ。これに比べて、僕たちは患者のために病院をつくるわけですから、副院長室、総婦長室なんてものは、最初からつくってないわけです。理事長室なんてものもありませんよ。僕が病院に行ったら、絶えず会議室にいるわけです。だから、(略)越谷市立病院の場合は、五十平方メートル(十五坪)に一床、僕たちの八尾病院は二十平方メートル(六坪)に一床です」(「現代」79年4月号)

 徳田は白衣を脱いで理事長職に専念し、自伝『生命だけは平等だ わが徳洲会の戦い』(光文社)を出版する。マスメディアは徳田を医療の革命児ともてはやす。しかし徳田が脚光を浴びる裏で、徳洲会は難題に直面した。「医師の確保」に苦しんでいたのである。

 当初、徳田は阪大医学部の先輩や同輩を招いて病院を立ち上げたが、「白い巨塔」といわれた大学病院はそうそう人材を派遣してはくれない。そこで白羽の矢を立てたのが「アメリカ帰り」の医師である。岸和田徳洲会病院の初代院長・山本智英、現徳洲会理事長の鈴木隆夫らアメリカで研鑽を積んだ医師たちを招聘したのだった。

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