2014年のワールドカップでNHKに提供した「NIPPON」という曲、そして2020年東京五輪にからんで日本が「誇りを取り戻す」ことをしきりに主張する最近の彼女はナショナリズムの色を強めつつあるが、これも「右傾化」とは少し違うのかもしれない。「右」や「左」もネタとして、しばしば露悪的に消費するのが「サブカル」以降の特徴とも言えるからだ。しかしときに、ネタがベタになるということも起きる。

 軍歌研究者の辻田真佐憲は、かつて軍歌がたどった道をこう説明する。

「昭和の戦争のときに商品で軍歌をつくっていた人は別に本気で信じていたわけではなくて、売れると思ってやってたわけです。しかしそれがプロパガンダとして軍国主義を後押しした。ネタのつもりがいつの間にか引きずり込まれてしまったんですね。それに近いことが、いまいろいろなところで起きているという感じもします」

 サブカルチャーを文字通り上位文化に対する下位文化ととらえた場合、広く大衆文化を意味するが、それはカウンターカルチャーとは違うものだ。単に大衆の欲望を反映したものであることは、権力に対抗的であることとは違う。辻田は言う。
「○○に政治を持ち込むなと言う人は、政治と文化芸術が別にあるという前提でものを言う。しかしもともと文化芸術と政治は一緒になるものです。たまたま時代によっては離れてるかもしれないけど、注意しないと普通に結びつく。そのうえで、じゃあどういう結びつきならいいのか、この結びつきは大丈夫なのかとチェックするようにしないと、いつの間にか政治が染み込んでくる。そのほうが危ない」

 大本営発表にしろ、軍国主義にしろ、必ずしも上から押し付けられたものではなく、それは大衆の欲望とセットになっていたと、辻田は言う。ひるがえって考えれば、カウンターカルチャーですら、自身を消費するという未来も含めて、大衆の欲望を反映していたものだったのではないか。

 文化は政治に大きな影響を与えることを示したのが20世紀中盤のカウンターカルチャーだった。しかし同時にそれは、大衆の欲望を反映したサブカルチャーの一形態にすぎなかった。だとすれば、我々はサブカルチャーで対抗することができるが、簡単にそれに支配されてしまうともいえる。

 革命はテレビではやらないが、音楽もまた部屋の中だけで鳴っているわけではないのだ。

(フリー編集者、ライター・野間易通)

AERA 2017年9月4日号