関ケ原町の飲食店の隣にある看板。一部の店では、麺類が、薄口昆布だしの関西風、濃口鰹だしの関東風から選ぶことができる(撮影/編集部・作田裕史)
関ケ原町の飲食店の隣にある看板。一部の店では、麺類が、薄口昆布だしの関西風、濃口鰹だしの関東風から選ぶことができる(撮影/編集部・作田裕史)
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植え替えられた「だじゃの松」。昭和の初め頃までは、子ども2人でやっと抱えらえるほど大きな幹の松が、道路にせり出す形で立っていたという(撮影/編集部・作田裕史)
植え替えられた「だじゃの松」。昭和の初め頃までは、子ども2人でやっと抱えらえるほど大きな幹の松が、道路にせり出す形で立っていたという(撮影/編集部・作田裕史)

 ことし5月に飛び込んできた「東日本でカール販売中止」の衝撃的ニュース。言葉から味覚まで、東日本と西日本は何かと違いが語られるが、改めてその境界線を探すため、岐阜県関ケ原町を訪ねた。

*  *  *

 関ケ原といえば、徳川家康が率いる「東軍」と石田三成の「西軍」が、計15万人以上の兵を動員して戦った「天下分け目の合戦」の舞台として有名な地。だが、それだけでなく、方言、名字、だしなどさまざまな文化の「境界線」でもあるのだ。

 それを探ろうと、記者は一路、関ケ原へ。レンタカーで駅周辺を回ると、国道沿いに現れたのは、「天下分け麺処」の文字。天下分け「目」と「麺」をかけているのだろう。このように、関ケ原町内では「境界」を売りにする店もあり、すでに「町おこし」のひとつになっているのかもしれない。

「そう、関ケ原は合戦だけじゃないんです。数年前から、東西文化の融合を感じる飲食や特産品を充実させることを目指し、アピールしています」

 関ケ原町役場企画政策課の山田和史さんはこう息巻く。

 関ケ原は中山道、北国街道、伊勢街道の三つの街道が交差する場所であり、実は東西文化の結節点でもあった。中山道の宿場である「今須宿」には「寝物語の里」の言い伝えが残っており、美濃の国と近江の国の旅人が、旅籠で寝ながら物語を交わしたといわれる。東西文化の結節点ゆえ、それぞれが交じり合って、関ケ原独自の文化が生まれたケースもある。

「お雑煮です。関東はしょうゆ仕立てのすまし汁に焼いた角を入れる。関西は白みそ仕立てで焼かない丸餅です。関ケ原町では、しょうゆ仕立てのすまし汁に焼かない角餅を入れます。両方の“いいとこ取り”ですね」(山田さん)

 岐阜県など中部地方に住む人の中には「東」と「西」のどちらに所属しているのか迷う人もいるようで、AERAネットで行ったアンケートでも、こんな声があった。

「ちょうど真ん中に位置するので、文化は西日本なのに、味つけは東日本のような気がする」(37歳女性、岐阜県)

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