AERA2017年6月5日号の表紙に野村萬斎が登場。撮影をしたのは、蜷川実花だ。萬斎は、映画「花戦」にて、能狂言と源流を同じくする花の世界を主役・池坊専好で表現した。どちらも禅の影響を受け、自ら参加することで完成するものだと言う。
「花にも自分の心象風景を映す鏡のような作用がありますね」
野村萬斎がポーズをとった瞬間、スタジオの空気が変わった。狂言で鍛えられた、体幹部の強靱さを感じる立ち姿。カメラの前で刻々と表情を変えてみせる萬斎は、狂言だけでなく国内外で数々のシェークスピア作品を演じてきた国際派舞台人の存在感を漂わせていた。
映画「花戦さ」でもそうだった。萬斎演じる華道家元の池坊専好(初代)は、仏に花を奉ることを修行と心得て生きる花僧。墨染めの衣をまとった彼が画面に現れると、それだけで静かな佇まいが伝わる。思えば、能狂言や華道・茶道・香道には、室町時代から安土桃山時代に源流を持つという共通点がある。
「どれも禅の思想の影響を受け、見るだけでなく自ら参加することで完成するもの。花にも自分の心象風景を映す鏡のような作用がありますね。それが『花戦さ』の中でも表現されています」
専好が暮らした六角堂(紫雲山頂法寺)は京都の烏丸御池駅に近い、昔も今も人々が行き交う場所にある。町衆は気軽に出入りし、僧たちの指導を受けながら嬉々として花を活けた。それは彼らにとって自分自身の表現なのだ。
「花戦さ」では、愛息・鶴松を失って正気をなくした豊臣秀吉の前で、専好が一世一代の大勝負を打ち、秀吉を諫める。まさに命懸けだ。専好は刀の代わりに花で戦いを挑んだのである。
「狂言師の世界でも『扇は刀だ』と言われます。武士が腰に刀を差すように、私たちも袴をつけ、扇を差す。常に武士のスピリットを持てということですね」
相変わらずスケジュールはびっしり。芸術監督を務める世田谷パブリックシアターの20周年記念プログラムとして、7月には「子午線の祀り」(木下順二作)を自らの演出で上演する予定だ。
「2017年にふさわしい新演出にして、若い人にも観ていただきたいと思います」(ライター・千葉望)
※AERA 2017年6月12日号