経済学者で同志社大学大学院教授の浜矩子さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、経済学的視点で切り込みます。
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「ロシアゲート」問題が、また改めて盛り上がってきている。トランプ米大統領は、自身のロシアとの関わりについての探索にストップをかけようとしたのか。そのために、FBIの長官に圧力をかけたのか。それが不首尾に終わったので、彼をクビにしたのか。ロシアの外相に、盟友から得た機密情報を漏らしたのか。
かのニクソン大統領を巡る大疑獄事件、あの「ウォーターゲート」スキャンダルはご承知の通りだ。それに勝るとも劣らぬ大騒動が今、アメリカで繰り広げられている。
他方、日本でも「オトモダチゲート」問題が、相当にのっぴきならない様相を呈し始めている。「ロシアゲート」に比べてスケールがケチ臭いが、醜さは負けない。
総理大臣とその妻のお友達さんたち。その人たちを、何かと特別扱いするやり方が、官邸から諸官庁に下知されているとか、何とか。真相解明はまだまだこれからだ。菅官房長官は、「怪文書」が飛び交っているのだと言う。いずれにせよ、万事はこれからだ。厳しくて沈着で、真摯な解明が求められる。
それはそれとして、疑いをかけられた時の身の処し方について、頭に浮かぶ事例がある。「柳田格之進」という古典落語がそれ。落語好きの皆さんはよくご存じだ。講談調の名作である。
柳田格之進は、尾羽打ち枯らした浪人である。彼はあまりにも心が清らかで、あまりにも節度ある人であり過ぎた。だから、藩内の不純な奴らに疎まれた。そして陥れられて、浪人の憂き目をみることになった。
そんな彼が、碁会所での出会いがきっかけで、ある豪商の家に招かれるようになる。そして、そこで起こった50両紛失事件の犯人容疑をかけられる。むろん、誠意の人が犯人であるわけがない。だが誠意の人は、容疑をかけられたというだけで、直ちに切腹を決意する。結局は踏みとどまるが、疑われた瞬間の迷いの無さはすさまじい。
身に覚えのない疑いであっても、嫌疑をかけられたことそれ自体を我が恥とする。そして、死をもって身の証しを立てようとする。この心意気、◯◯ゲートのお二人は見習ってみてはいかが? ちょっとでいいから。
※AERA 2017年5月29日