思想家・武道家の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、哲学的視点からアプローチします。
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この原稿が掲載される頃には、「共謀罪」の衆院審議は終わっているかもしれない。共謀罪は法としての瑕疵(かし)、審議の異常さにおいて政治史上でも例外的なものだ。安倍首相はこれをテロ対策のための立法であり、成立させなければ国際組織犯罪防止条約を批准できず、国際的な批判を浴びると説明し、これなしでは「東京五輪は開催できない」とまで言い切ったが、いずれも無根拠な発言だった。
穴だらけの、不要不急の法案を、ずさんな審議を通じて成立させようとするのはなぜか。それは「穴だらけの、不要不急の法案を、ずさんな審議を通じて成立させる」ことで、「整合的な法案を、丁寧な審議を通じて、必要なときに成立させる」よりも大きな政治的効果を得られると官邸が考えているからである。彼らがめざしているのは「誰も安倍に逆らえない」という事実を日本国民に受け入れさせることである。
権力者というのは、単に権力を持っている人間のことではない。どれほど権力があろうと、その人が理性的にその権力を行使し、合理的な政策を適切な手続きを経て実現している限り、人々はその人を敬愛することはあっても、恐れることはない。交渉の相手とみなすことはあっても、おもねることはしない。権力者が全能感を覚えるのは、不合理で、不適切なことをしても誰もそれを咎(とが)めない時である。だから歴史上の独裁者たちはまったく無意味な苦役をその臣民に強いることで、おのれの全能を確認しようとしたのである。
メディアが言う「安倍1強」体制とは彼が適切な政策を次々と実現したことがもたらした成果ではない。彼がどれほど日本の国益を害しても、どれほど日本国民の権利を侵害しても、誰も彼を制止することができないという現実の魔術的な効果なのである。共謀罪は立憲デモクラシーの空洞化をめざす法律である。だが、日本国民の相当数は基本的人権を制限すると公言しているこの政権を「逆らうことのできない全能者」と信じている。「他に適当な人がいない」という消極的な政権支持理由は「首相に逆らう人が見当たらない」という事実認知の単なる言い換えに過ぎないのだが。
※AERA 2017年5月29日号