北海道名寄市の佐久間誠さん(62)は、JRに不採用となりクビを切られた一人だ。
「自分を全否定された気がしました」
地元の高校を出て19歳で国鉄に入社、名寄保線区に配属となった。当時、鉄道の街と言われた名寄駅には140人近い職員がいた。全員が国労。佐久間さんも自然の成り行きで国労に入り、仕事を真面目にこなし、ごく普通の組合運動をしてきた。それが、理由も明らかにされず、86年7月に「人材活用センター」に入れられ、結局、採用拒否にあった。
●労働者の人権を軽視
どうしても不採用に納得がいかず、90年4月、同じくクビになった職場の仲間36人で名寄闘争団を組織した。慣れない建設現場で日雇いアルバイトなどをしながら生計を立てた。闘争団は各自の稼ぎや寄せられたカンパをプールし、再分配する仕組みを作った。月収は10万円程度。4歳と2歳の2人の子どもがいて生活は大変だったが、郵便局で働く妻が応援してくれた。
「こいつら赤旗を立てると言われ、アルバイト先を探すのも大変でした。この先どう生きていこうか、精神的に追い込まれていきました」
それでも歯を食いしばって最後まで頑張れたのは、いわれなき差別に対する闘いでもあったからだ。JR不採用問題は2011年7月、国労が闘争終結を決定し、24年間に及んだ闘争に終止符を打った。15年に名寄市議に初当選し、街の活性化と生活インフラの充実を訴える佐久間さんは、こう振り返った。
「失ったものは歳月だよね。労働者として一番の働き盛りに闘争の人生を歩んできたから」
先の鎌田さんは言う。
「国鉄解体は、いまのリストラの原点。国鉄解体後、組合の力は弱くなり、働く者の生活や人権が顧みられなくなった。その結果、労働者のクビ切りが簡単に行われるようになった」
鉄道員の人生をもてあそび、多くの犠牲から生まれたJR。今後どのような軌跡を描くのか。
(編集部・野村昌二)
※AERA 2017年4月10日号