国鉄が解体し、7社のJRが発足して30年。株式上場を機に、脱テツドウにシフトする会社があれば、お先真っ暗な未来にアタマを抱える会社あり。現在のリストラなど働く人たちの労働環境悪化は、国鉄解体に原点があるとの指摘も。「電車の進化」などさまざまな切り口で30年を検証していく。AERA4月10日号では「国鉄とJR」を大特集。
国鉄解体前夜、何があったのか。国鉄OBたちの証言をもとに、鉄道員の人生を翻弄したその実態に迫る。
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国鉄という組織ほど、政治に翻弄(ほんろう)された公営企業はなかった。
戦前は鉄道省に属し、終戦直前に新設の運輸省鉄道総局に移管された国鉄。1949年6月に公共企業体としてスタートし、高度経済成長で輸送力を飛躍的に伸ばした。だが、自動車と航空機の時代の到来で、64年には赤字に転落。借金漬けの構造から抜け出せぬまま、問題を先送りするだけの再建計画が繰り返し作られた。組織内の危機感は薄かった。
国鉄当局は70年、生産性向上運動、いわゆる「マル生運動」を導入する。労使が協調し経営を立て直すものだったが、当局側が現場管理職を通じ、組合脱退を強要していた事実が明るみに出る。翌71年10月、磯崎叡総裁(当時)が不当労働行為を認めて陳謝すると、現場の力関係は組合側に大きく傾いた。
国鉄時代、東京南鉄道管理局人事課に勤めていた丸山祐樹さん(70)=交通道徳協会理事=は、連日のように各労働組合と団体交渉をしていたと振り返る。
「徹夜交渉はしょっちゅう。やるかやられるかの世界でした」
●闘う労組は国労だけ
当時国鉄には、主要組合として国鉄労働組合(国労、組合員約24万人)、国鉄動力車労働組合(動労、約4万3千人)、鉄道労働組合(鉄労、約4万3千人)の三つがあった。このうち国労と動労は総評(社会党)系で分割民営化に反対、鉄労は同盟(民社党)系で労使協調路線。しかし86年1月、「鬼の動労」の異名をとった動労が突然、雇用確保と組織温存のため民営化賛成へと方針を転換。動労は「牙が抜けた」と評され、「闘う組合」は、国労だけとなった。反対姿勢を貫く国労によって、職場の規律は崩壊した。首都圏の貨物職場で働いていた国鉄OB(60代)は言う。