国会での「虚偽答弁」で崖っぷちの稲田朋美防衛相を始め、学校法人「森友学園」に連なる保守人脈に注目が集まる。トカゲのしっぽ切りで終わらせない。
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転機は阪神・淡路大震災だった。
1995年1月17日。兵庫県南部一帯を襲った地震は、6434人が亡くなる大惨事をもたらした。高速道路が横倒しになり、ビルや家屋があちこちで倒壊。未曽有の都市直下型地震は阪神間の交通を寸断した。こうした中、救援物資の供給基地の一つとしてフル稼働したのが、学校法人「森友学園」が運営する塚本幼稚園(大阪市)だった。園の元PTA関係者が当時を振り返る。
●愛国教育はなかった
「物資を被災地に送るノウハウなど皆無の時代ですが、集まった物資を救援車両で被災地にどんどん送ってもらいました。籠池(泰典)さんは理事長に就任したばかりでしたが、テキパキと陣頭指揮を執られていたのが印象に残っています」
園のHPによると、学園創設者の森友寛氏は「平成7年1月7日検査入院中の府立成人病センターにて死去」とある。震災の10日前に園運営のバトンが名実ともに籠池氏に引き継がれたことになる。
森友氏を知る複数の園関係者は「非常に厳格な方でした」と口をそろえる一方、「森友さんの時代には、しつけは厳しかったが、愛国教育みたいなものは全くありませんでした」と強調する。籠池氏と森友氏の関係をうかがわせるこんなエピソードも耳にした。
「森友さんの存命中、籠池さんは上から押さえつけられていた感じでした。娘婿である籠池さんを厳しく育てようとされていたのか、森友さんは籠池さんに対して『頼りない!』『何を考えているんだ!』と保護者の前で面罵されることもありました」(元保護者)
森友氏の死去は、籠池夫妻の二人三脚による「愛国教育路線」の幕開けでもあった。複数の保護者によると、少なくとも2005、06年ごろ、教育勅語の朗唱が始まっていたという。当時、地域の敬老会の行事で園児に軍歌を歌わせている場面に遭遇した園の元保護者はこう言う。