経済学者で同志社大学大学院教授の浜矩子さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、経済学的視点で切り込みます。
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トランプ大統領が、就任後初の連邦議会向け演説を行った。結構、評判がいい。ようやく大統領らしくなった。就任演説の過激さとは様変わり。抑制が利いていた。こうした評価が世界を駆けまわっている。
何故だろうと思う。演説の全文を読んだ。動画もみた。どこが大統領らしいのだろう。就任演説と、どこが様変わりなのだろう。アメリカの議員さんたちも、内外のメディアも、何やら集団催眠にかかったようだ。
確かに、声のトーンはおとなしめだった。だが、ひょっとすると、それは、自分らしくない言葉、計算された台本を間違えないように一生懸命話していたからではないか。単に、ミスを回避すべくとっても緊張していただけではないのか。人間は、緊張しすぎるとエネルギーのレベルが下がる。かえって落ち着いているように見える時がある。だが、実は意気をうまく揚げられていないだけなのである。要は、集中力を高めることに失敗している。
この演説を聴くよりも読む中で、特に感じたことがある。何やらパッチワークの観がある。「大統領っぽい」部分と「トランプっぽい」部分が交互に登場する。「大統領演説マニュアル」に忠実に従って格調高く行った部分。そればかりではご本人がつらいから、トランプ節の炸裂をちょっとだけ許す部分。この二つの継ぎはぎと切り貼りで、話が進行していく。ちぐはぐ感が強く残った。少しめまいがする。
もっとも、こうして我々があの演説のトーンや語り口ばかりに関心を奪われていることにこそ、問題があるだろう。どさくさに紛れて、なかなか怖いことが言われてもいる。
一つ目を引き、耳をざわつかせたのがVOICEなるものをつくるという宣言だった。VOICEはVictims Of Immigration Crime Engagementの頭文字だ。国土安全保障省の傘下に「移民犯罪被害者」対応部署を設置するのだという。「移民犯罪」なるものをこのような形で特定する。こういうことでいいのか。あたかも、移民はすなわち犯罪者群団だといわんばかりだ。いくら抑えたトーンでしゃべっても、言っていることの中身が正当化されるわけではない。
※AERA 2017年3月13日号