「内田先生はすでに4年前に勇退を考えていたが、後継者がいないため周りに説得され断念した経緯がある。自分がいると都政が混乱すると考えたら、身を引く可能性は高い」
●「ドン」作った石原都政
メディアの取材に応じない態度からこわもての印象もある内田氏だが、「口数は非常に少なく、とにかく面倒見がいいタイプ。知恵も先見性もある」(深谷隆司・自民都連最高顧問)と評価する声も少なくない。前出の都連関係者も「都政への熱意や知識量は都議の中でもずば抜けている」とも言う。
内田氏は1939年生まれ。鳩山友紀夫、邦夫兄弟の父である威一郎元参院議員の下で「下足番」を務めたという。75年から千代田区議、89年から都議、2005年から今年9月まで都連幹事長だった。ある都連幹部は、当初から権勢をふるっていたわけではないと語る。
「91年の都知事選で内田氏は小沢一郎氏の誘いにのって、自民党本部が推した鈴木俊一氏の対抗馬を推して敗れ、それからしばらく干されていた」
そんな内田氏に権力が集中する大きなきっかけは、99年の石原慎太郎都知事の誕生だ。
「週2回程度しか都庁舎に来ない石原氏に代わり、都庁幹部が内田氏のもとに相談に来ることが増えた」(都政関係者)
石原氏も内田氏の力を無視できなくなった。決定的だったのが内田氏の議長時代、石原氏の側近だった浜渦武生副知事(当時)に対する百条委員会設置の動きだ。
「内田氏は浜渦氏を追い詰めたが、最終的に矛を収めたことで浜渦氏は偽証罪に問われなくなり、石原氏は内田氏に借りを作る形になった」(都連関係者)
●女性総理の可能性は?
野党にも顔がきく内田氏を役人が頼り、「内田氏がいたことで都政が滞ったという印象はない」(都庁職員)という声も聞かれる。そういった環境が、意外に愛される「ドン」を作り上げたとも言える。
ただ、その彼が作り上げた都議会自民党は不気味なまでの「上意下達」組織となった。「重要なことは一部の幹部が決め、下の人間には事後報告というケースが非常に多い。取材窓口も一本化しようとするし、不満を持つ議員は結構いる」(関係者)との声も。内田氏の引退は、その体制に亀裂が入る引き金となる可能性は高い。