【AERA2016年4月4日号より 年齢も掲載当時のまま】
障がいがあることは、アスリートたちにとって何の「障害」でもなかった。肉体を鍛え、理論を理解し、技を磨く。彼らの「戦い」を取材した。
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「なぜ?」を一つ一つ解消するうちに、気がつくと世界のトップに立っていた。
義足の選手として、日本陸上界初のパラリンピック・メダリストになった山本篤(33)。軽やかに走り、跳ぶ彼の姿を見ていると、義足で走るのは簡単なことのように思える。
だが、スポーツ義足製作の第一人者、臼井二美男は言う。
「義足は進化してきたとはいえ、板バネ部分をたわませるためには、相当なトレーニングを積んで筋力をつけなければならない。脚を切断した選手には特に大変なことです」
●包帯で「土台」を作る
実際、国内で約6万人といわれる義足利用者のうち、スポーツ義足をつけて走れる人はわずか数十人。多くは、自分が走るなんて想像もしていないし、たとえチャレンジしたとしても、途中で壁にぶちあたる。山本はその壁をどう乗り越えたのか。
17歳の春、バイク事故で重傷を負う。絶望の中で左太ももから下を切断することになり、麻酔の直前に主治医に聞いた。
「スノーボードって義足でできますか」
「スキーならできる」という主治医の言葉にわずかな光が見えた。術後は看護師から、切断した脚を毎日弾性包帯で巻くように言われた。
義足を履くときは、「ソケット」と呼ばれる装具に脚を入れる。脚がコップのように下がすぼまる形だと装着しやすく痛みも出にくい。だが、切断したばかりの脚は、放っておくと重力の影響でしずくのように下が膨らんでしまう。山本は半年間、毎晩弾性包帯で形を整え、義足アスリートの土台をつくった。
2カ月後に初めて義足を装着。痛くて歩くことさえできない。切断面からは血も出た。走るなんて想像もできなかった。しかし、弾性包帯の効果か切断部分が安定するのは早く、4カ月後にはジョギングができた。