荒れ果てた被災地に咲く野の花。これらを摘み、壊れた防潮堤や子どものいなくなった教室などにいけて歩いた華道家がいる。原発事故で鎮魂の機会さえ奪われた地に祈りを捧げる。
福島県南相馬市に移り住み、被災地に野の花をいけて歩いた華道家がいる。大阪府堺市のいけばな流派、花道みささぎ流家元、片桐功敦(あつのぶ)さん(42)だ。
福島に行くきっかけは、水葵(みずあおい)という植物だった。東日本大震災から約1年半が経った頃、南相馬の沿岸部に準絶滅危惧種の水葵の群生が咲き始めた。震災前は農地だが、100年以上前は潟だった場所。津波で一帯が沼地に戻ったことで地中深くに潜んでいた種が発芽し、鮮やかな青紫色の花が咲いたという。
そんな話を福島県立博物館の学芸員から聞いた片桐さんは、人が減ると花が増え、人が増えると花が減るという水葵の現象にメッセージ性を感じた。同博物館が展開する「はま・なか・あいづ文化連携プロジェクト」から誘いを受け、福島が抱える課題にアートを通じて向き合い発信する取り組みに参加した。
2013年夏、初めて福島を訪れた。当初は水葵をいける目的だった。しかし津波被害の跡地、放射能の影響で人が暮らせなくなった場所を目にした時、感じた。
「目の前に起きていることを、自分が納得のいくまで時間をかけて咀嚼したい。そうしないと、この地に咲く花々と、ここに暮らす人たちのことを自分の言葉で語れない」
約7カ月間、南相馬市原町区で暮らした。各地に一人通い、花を求めてただ歩いた。見つかった植物はほとんどが園芸種。
「誰かの家の花壇で震災前に植えられていたものが、ひとりでに咲いたのではないか」
そうやって見つけた花を被災地のあらゆる所にいけた。津波で壊れた防潮堤に水葵を、荒野の雪景色に水仙(すいせん)を、子どものいない教室に泰山木(たいさんぼく)を、浜辺の壊れた車に薔薇(ばら)やコスモスや芙蓉(ふよう)などあふれんばかりの花々を。大阪と南相馬を行き来した期間も含め約2年間続けた。花をいけることは命を次に繋いでいくことだという。(ライター・桝郷春美)
※AERA 2016年3月21日号より抜粋