日本人移民といえばブラジルなどの南米を思い浮かべる人が多いのではないか。しかし、戦前はフィリピンへも多数の日本人が渡って、農業や商業の分野で成功し、安定した暮らしを営んでいた。彼らの多くは現地に溶け込んで妻をめとり、家族をもうけていた。
そのような平穏な暮らしは、太平洋戦争の勃発によって一変してしまう。当時のフィリピンはアメリカの植民地。1941年に日本軍がルソン島に上陸して占領すると、日本人移民たちも現地で徴用されたり、通訳として雇用されたりして、戦時体制に組み込まれた。
その後、フィリピン全土が戦闘の舞台となり、日本軍だけで50万人以上もの死者を出した。混乱のなか、それまで平和に暮らしていた日系人たちは逃げ惑うことになる。米軍とフィリピン独立を掲げるゲリラ部隊が、日本人の血を引いているとみるや、容赦なく襲ったからだ。
「母親に手を引かれて山中へ逃げて、イモの葉などを食べながら生きながらえました」
当時まだ幼かった2世たちは、そう口をそろえて話す。
私は戦前・戦中の記憶を持つ日系人たちをフィリピン各地に訪ね、証言を集めてきた。戦後70年がたち、戦争の記憶というものが急速に風化するなか、人生を翻弄された人々の話が、とても貴重に思えたからだ。
「戦後すぐ、6歳ぐらいだったと思いますが、近所の男の人に突然、棒で殴られたことがあります。わけがわからなくてとても怖かった」
そう話すのは、ルソン島北部の街バギオで靴屋を営むファニータさん(71)。父の姓は「シゲトミ」。農園を営んでいたと母から聞かされた。自身は父のことを何も覚えていない。いつどこで亡くなったのかも知らない。殴られた理由が、日本人の血を引くからだと理解できたのは、かなり後になってから。一度も学校へは行かず、21歳のとき、41歳離れた中国人と結婚。生きるためだった。
※AERA 2015年8月24日号より抜粋