宝塚すみれ発電代表取締役 井上保子さん(55)「FITがなくなったら、発電分を地域で使えばいい。電力会社から買う量が減れば大きなインパクト。何でも考え方一つです」。宝塚市内の2号機で(撮影/編集部・宮下直之)
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宝塚すみれ発電代表取締役 井上保子さん(55)
「FITがなくなったら、発電分を地域で使えばいい。電力会社から買う量が減れば大きなインパクト。何でも考え方一つです」。宝塚市内の2号機で(撮影/編集部・宮下直之)
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 もう国や電力会社だけにはまかせておけない。将来のエネルギー供給を担う市民の取り組みを追った。

 その冬の日の宝塚の空は、どこまでも晴れ渡っていた。市内の北部、中心街から車で30分ほど走った山間部にある耕作放棄地。非営利型株式会社「宝塚すみれ発電」は2012年12月、ここに手作りの太陽光発電所を完成させた。

「おもろいで。(素人でも)できるできる」

 そんな呼びかけに、作業当日、同社関係者ら約10人が集まった。1個20キロはある敷石150個を一つ一つ並べ、その上に51枚の太陽光パネルを敷き詰める。パネル同士を固定し、配線をつなげば完成だ。パネルの総面積は約100平方メートル。要したのは5時間だった。

 同社代表取締役の井上保子さん(55)が、専用モニターをのぞき込むと、液晶画面に発電量を表す数字が並んだ。パネルに降り注いだ太陽光が、確かに電気に変わったことを示していた。それを見て、思わず叫んだ。

「見ろっ、やったった。(自分たちで)電気を作ったわ」

 その叫びには、30年余りの思いが詰まっていた。

 京都精華大学の階段教室。18歳の井上さんは期待に胸を膨らませていた。大学生になって初めての授業が始まる。「自然科学概論」。教壇に立った教員の槌田劭(たかし)さんは、おもむろに蛍光灯を消した。薄暗くなった教室で槌田さんは学生に言った。

「私は原発に反対しているので、昼間に余分な電気は使いません」

 槌田さんの言葉は新鮮だった。都市に潤沢な電気を供給する一方で、貧しい地方を補助金漬けにして反対派を抑え込む原発政策の実態を知り、「なんで誰も教えてくれなかったの。教科書には『原子力は夢のエネルギー』って書いてあったのに」。無知な自分に腹が立った。

 1986年、チェルノブイリ原発事故が起きた。市民団体「原発の危険性を考える宝塚の会」にいた井上さんは、仲間とともに、関西電力に脱原発の申し入れを繰り返す。だが、話し合いの場で、こう言い放たれた。

「皆さん、電気がなくなると江戸時代に戻るんですよ。そんなに原発に反対ならば、代わりのエネルギーを教えてください」

 再生可能エネルギーの存在は知っていたが、経済性を盾にその実現可能性を問われると、二の句が継げなかった。

 悔しさを行動に変えたのが、井上さんの30年間だった。市民団体で、高額な講演料にもためらわず一流の研究者を呼んで学び、原発反対運動があればどこへでも駆けつけた。共同購入の仕組みを使って、原発立地地域の漁業者や農家の産物を買って支援した。その延長線上に、ようやく自分たちの発電所が完成した。そうした時を経たからこそ、「見ろっ、やったった」というあの叫びが出たのである。

AERA 2015年2月2日号より抜粋