政治学者の姜尚中さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、政治学的視点からアプローチします。
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コメンテーター、論客、文化人、タレント学者。この30年近く、私に与えられた「他称」です。研究者の端くれとして、自らを「学者」と称することはあっても、それに「タレント」を付け加えれば、明らかに蔑称的なニュアンスが込められています。
湾岸戦争から30年超、テレビメディアとつかず離れずのスタンスをとりながらも、自分の「専門領域」と関係のないトピックにも自分なりの判断を発信してきました。コメンテーターには狭義の意味で専門的なコメントを発するジャーナリストやエキスパート、学者やアナリストが、広義の意味ではジャンルを問わず、自分の見識や判断を発する人がいます。強いて言えば私は後者の役回りを引き受けていたことになります。専門外なのに出しゃばって「偉そうに」公共の電波を通じて口を挟むのか。こんな心ない批判を数えきれないほど受けました。
今は、「何でもござれ」と半ば茶化(ちゃか)すことに快感と存在感を覚える「ポストモダン」を履き違えた自称学者やコメンテーターが幅を利かしています。確かにリオタールの『知識人の終焉(しゅうえん)』以来、大文字の「知識人」は退場したと言えますが、機能的な意味での「知識人」はまだ生きていますし、必要でしょう。
では「知識人」がなぜ必要なのか。それは私たちの社会が、一定の「理念」や「原則」のもとに成り立っているからです。それを単なる「建前」とみなし、積み木崩しのようにひっくり返すことで違いを際立たせられると勘違いしている「輩」。それは、「専門バカ」とも言えない「バカ専門」としか言いようがありません。「本音」は「建前」に先行するわけはなく、「建前」、一定の理念や原則があって初めて本音が成り立ちます。そして、その理念や原則が確立され、それを「建前」と見なすためにどれほどの人々の苦闘の歴史があったのか、それすら忘れた「バカ専門」は「心情なき享楽人」の成れの果てでしょう。それはニーチェが揶揄(やゆ)している「幸福を見いだした最後の人々」の末裔(まつえい)に過ぎず、そんな「輩」が跋扈(ばっこ)するメディアに未来があるとは思えません。私もそろそろテレビや映像メディアから「足を洗う」時が来ているようです。
◎姜尚中(カン・サンジュン)/1950年熊本市生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科博士課程修了後、東京大学大学院情報学環・学際情報学府教授などを経て、現在東京大学名誉教授・熊本県立劇場館長兼理事長。専攻は政治学、政治思想史。テレビ・新聞・雑誌などで幅広く活躍
※AERA 2023年2月27日号