『至上の愛』
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『アセンション』
『ラスト・デイト』
『バラード』

 コルトレーンの命日が近づいてきた。おそらく全国でコルトレーン忌の催しが行われることになるだろう。私の住んでいる京都でも、それは営まれるはずである。

 コルトレーンは、モダン・ジャズの歴史においても、頂点を極めた人だとされている。『至上の愛』(1964年)あたりがその記録として、しばしば語られる。あるいは『アセンション』(1965年)も。ジャズ初心者へ、それらをすすめるマニアは少なくない。とにかく、『アセンション』を聴け。これこそがジャズを極めた名盤だ。あれで心が躍らなければ、ジャズがわかったことにはならない、と。とりわけ、いわゆる団塊の世代と呼ばれる人に、そうのたまう向きは多い。

 しかし、どうだろう。ジャズを初めて聴く人が、あれを耳にして楽しめるのだろうか?ああ、いい音楽と出合えた。素晴らしいCDを紹介してくれて、ありがとう。そう心から思える人は、はたしてどれくらいいるのだろう。

 私は、ほとんどいないと考える。初心者なら、まずわけがわからんと感じるはずだ。

 まぁ、現代音楽あたりを通ってきた人なら、話は違うかもしれない。案外、コルトレーンってかわいい音でやってんだね。もっと、無茶苦茶やる人かと思っていたら、けっこう耳ざわりがいいよ。そんな反応も、かえってくるかと思う。

 だが、そう感じられるのは、ごく一部の現代音楽通だけだろう。いわゆるポップスとクラシックあたりで過ごしてきた人には、まずなじめない。あれを初心者にすすめるのは、どうかと思う。

 はじめて聴かされた人は、たいていこう考えるだろう。さっぱりわけがわからない。でも、あれについていけなければ、ジャズが飲み込めたことにはならないという。ああ、ジャズはおそろしいところだ。もう、近づくのはやめておこう、と。

 今までなじんできたポップスとは違う音楽を、あじわいたい。ジャズにふれれば、まったく新しい自分が見出せるのではないか、と。そうやって背伸びをした人が、たちまち縮こまる。せっかく、ジャズの世界へやってきた人を、かえって遠ざけてしまう。『アセンション』をいきなり薦めることは、結局そんな結果しかもたらさない。

 私にも苦い思い出がある。フルートをたしなんでいる某女性(しかも美人)に、つい言ってしまったのだ。ジャズにもフルートの名演はありますよ。エリック・ドルフィーの『ラスト・デイト』(1964年)なんか最高です、と。

 ありがたいことに、彼女もドルフィーを聴いてくれた。しかし、全然なじめなかったという。

 「井上さんは、あんなのがおもしろいのですか」

 とたずね返されもした。おわかりだろう。私は、某美女の前で、近寄りがたい変人になってしまったのだ。

 全国のジャズマニアに、私は言いたい。初心者に道をたずねられ「コルトレーン」を持ち出すのは、もうやめよう。どうしてもコルトレーンに触れたいなら『バラード』(1962年)で手を打とう。あと、ジョニー・ハートマンとの共演(1963年)ぐらいにとどめておかないか。

 私も、これからはエリック・ドルフィーを控える。ジョン・ゾーンとくちばしって、見栄をはったりもしない。

 エディ・ヒギンスでいいではないか。ケニー・ドリューで構わないだろう。ケニー・Gもグローバー・ワシントンJrも、もちろんいい。ちょっと大人の音に触れてみたいという人を、仲間にしてしまう。その手だてを考えたほうが、業界全体のためにも好ましいのではないか。

 コルトレーンやドルフィーの音は、モダン・ジャズ史の中だと必然性をもつ。1960年代には、現れるべくして、ああいう音が浮かび上がってきた。だが、そんなことは、モダンジャズ史に通じていないと、腑に落ちない。初心者にすすめられる音楽ではないのである。

 まぁ、虫の好かない手合いをしりぞける、撃退用に『アセンション』は、いいかもしれない。うちで飼っている犬は、あれを聴くと吠え出す。泥棒がきたとでも、犬なりに感じているのだろうか。

 正直に言うと、今の私も『アセンション』あたりは、つらい。若い頃に味わえた陶酔感は、もう蘇らなくなっている。今は、あれに酔えた自分を振り返りたくて、ときどき聴き直すぐらいだ。歌は世につれ、世は歌につれという懐メロでしかない。

 案外、回春用に聴いているおじさんたちも、結構いるのではなかろうか?

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