新幹線の開通は、利用者はもちろん、運転士にとっても大きな出来事だった。「ひかり」の1番列車の運転士が、当時の知られざるエピソードを明かした。
その日の東京駅は朝もやがかかっていたという。1964年10月1日。定刻の午前6時。東京駅9番ホームに横づけされた丸い鼻の新幹線「0系」の「ひかり1号」は、ブラスバンドの演奏に送られ、一路大阪に向かい出発した。くす玉が割られ、50羽の鳩が羽ばたいた。
同時刻、新大阪駅の4番ホームからは、東京行き「ひかり2号」が、紙吹雪舞う中で、満員の乗客を乗せて静かに滑り出した。神奈川県に暮らす関亀夫さん(81)は、この上り1番列車「ひかり2号」の運転席にいた。
「1番列車の運転希望者はいっぱいいましたからね。なぜ私が選ばれたのか?物おじしなかったからかな(笑)」
52年、国鉄に入社。59年に運転士となり、63年8月、新幹線の運転士に応募。「パイロット並み」といわれた厳しい試験をパスし、晴れて新幹線の運転士になった。
当時、新幹線は2人交代で運転していた。この日、新大阪駅を出たひかり2号は京都を過ぎ、大津周辺で時速200キロ(公式最高速度は210キロ)を出した。名古屋駅に定刻通りに着き、豊橋を過ぎると予定通り下り「ひかり1号」とすれ違った。
関さんは、浜松駅を過ぎ、天竜川の鉄橋で、バトンタッチを受けハンドルを握った。時間を稼ごうと、とにかく速めに走ったという。
ところが、新横浜駅を通過して、関さんは所定より5分早く走っていることに気づいた。田町付近で40キロ近くまでスピードを落とし「時間稼ぎ」をした。隣を走る山手線に抜かれてしまった。
「夢の超特急が在来線に負けちゃって、ちょっと格好が悪かったですね」
こうして関さんらの“奮闘”によって、ひかり2号は定刻の10時きっかり東京駅に到着。万歳の合唱が起きた。
その後、関さんは、国鉄がJRに分割・民営化された87年に退職するまでの20余年、0系運転士として走り続けた。
「0系は、未来への夢を運び続けた。日本の高度経済成長期のシンボルでしたね」(関さん)
※AERA 2014年8月25日号より抜粋