ジャズのミュージシャンには、アカデミックな音楽、いわゆるクラシックにいどむものもいる。なかでも、キース・ジャレットは、そちら方面の録音が多いピアニストとして、知られている。
今回は、キースのそんなこころみに、私なりの感想を書かせてもらうことにする。
キースのクラシックは、ジョスタコーヴィーチをとりあげたCDで、最初に聴いた。曲は、『24のプレリュードとフーガ』。1992年に、ECNからだされた二枚組みのアルバムがそれである。
そうかんたんに、ひきこなせる曲ではない。技術的には、けっこうハードルも高いと思う。だが、キースのかなでる音は、たいそう美しい。一連のソロ・コンサートにもつうじるようなひびきが、たのしめる。『ケルン』や『ブレゲンツ』のひいき筋には、おすすめのCDである。
私は、ウラジミール・アシュケナージが録音した『24のプレリュードとフーガ』も、てもとにおいている。ジャズ好きには、なじみがないかもしれない。だから、あえて気はずかしくなるような紹介も、しておこう。アシュケナージは、クラシックの世界で、頂点をきわめたピアニストだ。『24のプレリュードとフーガ』も、斯界ではたいそう高く評価されている。
だが、私はキースのほうをおす。音ののびやかさという点で、アシュケナージはキースに、およばない。専門家の仕事より、余技でしかないキースのそれに、私は軍配をあげる。
まあ、指さばきのたしかさ、正確さは、私の耳ではわからぬが。ジャズをよく聴いてきたせいで、耳がジャズピアニストになれすぎたためであろうか。あるいは、ECM独特の録音技術、いわゆるECMサウンドに、私はごまかされているのかもしれない。ちなみに、アシュケナージのCDは、デッカ・レコードから、1999年にだされている。
ねんのため、キースのバッハも聴いてみる。やはりECMの『平均律クラヴィア曲集』を、あじわってみた。
もし、これもすばらしいと感じるなら、私の耳がECMにやられている可能性はある。あるいは、ジャズのひびきに汚染され、クラシックがわからなくなっているおそれだって、ないとは言えなくなるだろう。
結論から書くが、キースのバッハは、つまらない。みょうに、音がちぢこまっている。大バッハが相手だということで、萎縮してしまったのだろうか。
それに、ジャズ・ピアニストらしいけれん味も、うかがえない。そのとりくみようは、いたって平板である。おとなしくて、つまらない。まあ、こちらが『ブレゲンツ』や『ケルン』のひびきを、もとめすぎているせいかもしれないが。
ジャズでは、ピアニストが左手と縦横につかうことが、あまりない。コードをおさえるぐらいで用のすむ演奏が、その大半をしめている。それで、バッハの対位法がもとめる左手を、こなせなくなったのだろうか。じっさい、キースのバッハは、左手がすこしたどたどしくなっているようにも感じる。
あと、その左手がやや伴奏くさくなっているところも、気になった。右手の旋律を、左手が低音でささえるというかまえが、強くなりすぎている。
対位法の妙味は、左手と右手が、ともに旋律をこなすところにある。いや、場合によっては、その中間あたりを、主旋律がとおっていくことさえ、なくはない。こんなに、左手の役目を、伴奏にかぎってしまっていいものか。これも、左手へ伴奏をゆだねやすいジャズのくせなのだろうか。
キースは、音大でアカデミックなピアノをならった人である。ひょっとしたら、そのころは、こういうバッハ奏法が、ふつうだったのかもしれない。
今は、対位法をくっきりうかびあがらせるため、左手を伴奏にあてるそれが主流だった可能性もある。
キースは、そんな古い流儀にしたがっていた。タイムカプセルよろしく、過去のスタイルを、意図せずに今日につたえているのではないか。まあ、これは、古いバッハの録音と聴きくらべなければ、なんとも言えないが。
さて、最近ECMは、クラシックの録音にも力をいれている。バッハでも、アンドラーシュ・シフの演奏をCD化しはじめた。これが、じつにすばらしい。くらべて、キースが気の毒になってくる。
『ケルン』風にバッハがこなせるピアニストは、いないか。キースがひいた『24のプレリュードとフーガ』のライナー・ノートで、作曲家の吉松隆は、そう問いかけている。
そして、自分のそんな問いに、こうこたえていた。「若手の新感覚派アンドラーシュ・シフあたりがそういう趣味に近いような気がする。」1992年の、まだシフがECMへうつるより前にしるされた指摘である。
今、シフはECMで、すっかり大家へとなりおおせているのだが。