酒はきらいじゃあない。若いころよりは、よほどへったが、夜の街へ飲みにいくことも、時にはある。なじみと言えそうな店も、ないわけではない。
先日、そういう店でおもしろい光景を見た。カウンターに男女のふたりづれが、すわっている。
ひとりは、30歳そこそこの女性。ちょっとめだつ、なかなかいい女である。いっぽうつれあいの男は中年のおっさん。いや、初老のおじいさんと言うべききか。60前後、彼女の倍ぐらいは年をとっていると、私は見た。
なお、私は椅子を3つほどはなれ、同じカウンターの前ですわっている。ふたりのやりとりは、横から聞くこととなった。
「○○さんは、それだけきれいなんやから、彼氏おるやろ」」。
「ううん、おらへん、今は誰ともつきおうてへん」。
「ほんまか、うそついてんのちゃうか」。
「うそやないよ、ぜんぜんいいひんて」。
女には恋人がいない。そうたしかめてから、がぜんこのおじいがめざめたのだ。
と言っても、女をくどきだしたわけではない。すくなくとも、おじいの口からでてくる言葉に、好きだとか愛してるという文句は、いっさいなかった。彼はもっとべつのことを、しゃべっている。
それは、ジャズの話、ジャズについてのうんちくであった。店にはBGMで軽めのジャズがながれている。それをひきがねにして、おじいの口からは、ジャズ談義があふれだした。
他にあまり客もおらず、いやでもその語り口が耳へはいってくる。聞くつもりはなかったが、おのずと聞いてしまうことになった。
そして、これがじつにわかりやすく、おもしろい話だったのだ。今、店になっている曲はジャズで、演奏家たちはどういうことをやっているか。ここで、スリーコーラス目がおわって、第4コーラス目にはいっていく。そんな解説がやや唐突な印象はいなめぬものの、あざやかに語られる。
表面的にはさきほどものべたとおり、くどき文句じゃあない。しかし、おじいのジャズ噺は、彼氏がいないという女の応答から、はじめられている。それが、ジャズに名をかえた、雄のはしくれであるおじいによる求愛であったことはうたがえない。
おそらく、年齢的にフェロモン勝負はできないと、見きわめをつけていたのだろう。そして、フェロモンの欠如をおぎなうかのように、ジャズがみなぎり、ほとばしったのである。
くどいが、ねんのためくりかえそう。けっして、いいかげんなふたしかな話ではなかった。おじいは音楽のことをよくわかっている。たいへんなジャズ通であることは、横にいても聞きとれた。
にもかかわらず、えらそうにはふるまわない。じつにていねいに、またかみくだいて、のみこみやすく女に説いている。そして、女も興味深そうに、おじいの語りへ耳をかたむけていた。
いい女がいれば、ジャズ評論家になれる。それを、目のあたりにした一席ではあった。
こういうジャズ世代は、ほかにもけっこういるかもしれない。似たようなおじいは、全国各地の飲み屋で見うけられそうな気もする。じっさいモダン・ジャズで青春をおくった男たちは、そろそろフェロモンが枯れだしているのだから。
読んでいる人は、ひょっとしたら邪推をするかもしれない。飲み屋でジャズを語っていたのは井上じしんじゃあないのか、と。けっしてそうではないが、まあしかし、そう思われてもけっこう。そんなことはどうかんぐられてもかまわない。ただ私はこのふたりを見て、あるさとりをひらいた。そのことを、つたえたいのだ。
顔やスタイルの美しい女性については、しばしばこう言われる。表面だけが美しくてもだめである。中身を、内面をみがかなければいけない。本をいろいろ読んで、教養をみがくこともたいせつだ、と。
しかし、私が飲み屋で見かけたいい女は、本を読む必要がない。ジャズのかんどころは、うんちくたれのおじいが、わかりやすく説明してくれる。中山さんや後藤さんの、とっつきが悪そうな本は、ほうっておいてもかまわない。彼女は、その外形的な魅力によって、ジャズ本数冊分の理解を、手にいれることができる。
そして、これはジャズにかぎったことじゃあない。こういう女は、さまざまなおじいから多方面のうんちくを、すいとっていくだろう。そして、教養もおのずとみがかれる。けっきょく、中身もかがやくののは、やはりきれいな女なんじゃあないかと、そう思い知らされたのである。