ミシュランガイドの発表会でフランスへの感謝を述べた小林圭さん=撮影・増井千尋
ミシュランガイドの発表会でフランスへの感謝を述べた小林圭さん=撮影・増井千尋
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「レストランKEI」の前に立つ小林圭さん (c)Pascal Lattes
「レストランKEI」の前に立つ小林圭さん (c)Pascal Lattes
ミシュランガイドを手にレストランのチームと記念撮影する小林圭さんら
ミシュランガイドを手にレストランのチームと記念撮影する小林圭さんら
小林圭さんの料理の品々。食材を生かした繊細な手法が高く評価されている。ラングスティーヌ(アカザエビ)の赤いマヨネーズあえ、キャビア (c)Richard Haughton
小林圭さんの料理の品々。食材を生かした繊細な手法が高く評価されている。ラングスティーヌ(アカザエビ)の赤いマヨネーズあえ、キャビア (c)Richard Haughton
イベリコ豚のタタキ (c)Richard Haughton
イベリコ豚のタタキ (c)Richard Haughton
ングスティーヌと雄鶏のトサカ (c)Richard Haughton
ングスティーヌと雄鶏のトサカ (c)Richard Haughton
小林圭さん(右)と増井千尋さん、料理評論家ステファン・リスさん
小林圭さん(右)と増井千尋さん、料理評論家ステファン・リスさん

 日本人シェフが本場で栄冠を手にした。星の数でレストランを評価する「ミシュランガイド」のフランス版で、小林圭さん(42)が日本人として初めて三つ星を獲得した。日仏料理界の歴史に刻まれる偉業だ。フランス人以上に本物にこだわる凄腕料理人の実像に、現地在住のジャーナリスト・増井千尋さんが迫る。

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 全世界29カ国で計32冊出版されているミシュランガイド。なかでも本国フランス版は最も評価が厳しいことで知られる。日本やニューヨークの三つ星のフランス料理店は、本場では二つ星相当値だとも言われる。

 フランスでは、星の数はレストランの売り上げはもちろん、仕入れ先やその地方の交通機関まで影響を及ぼす。片田舎の店でも三つ星を獲得すると、国内外の客が殺到し、街が潤うのだ。100年以上の歴史を誇るタイヤ会社の赤いガイドブックは、地域経済をも揺さぶる。

 覆面調査員の数も評価基準もかたくなに公開しないミシュラン。パリでは10年以上超高級店以外に三つ星を与えず、個人経営の若いシェフを見落とし続けた。

 あきれたフランス料理界はミシュランのことを、「時代遅れの化石」と批判した。インターネット時代に乗り遅れたこともあり、ガイドブックの売れ行きは落ちる一方だ。

 こうした声を背景に、2018年9月にミシュランガイドの新しい総責任者にグウェンダル・プレネック氏が就任。数カ月後に刊行された19年版は表面的な変化で終わったが、20年版では「革命を起こす」と暗示していた。

 小林さんは11年、パリのルーブル美術館近くに「レストランKEI」を開いた。私が初めて食べたのはオープンしてから数カ月後のことだ。

「ずいぶん過激な料理だなぁ」と首をかしげたことを覚えている。酸っぱかったり、甘かったり……。決してまずくはないが、食べ手に強い印象を残すアグレッシブな料理だった。

 食後に小林さんに会った。金髪に、足は高級ブランド「クリスチャン・ルブタン」のスニーカーで、自己主張の塊のような若いシェフだった。

 一方で、はっきりと自己を持っている強いキャラクターの裏には、意外に臆病で真面目な完璧主義者が潜んでいた。その後、私は小林さんの料理本を2冊執筆し、「圭さん」と呼ぶようになった。今や私にとって彼は弟のような存在だ。

 オープンの翌年に一つ星を取った。当時は、「僕は三つ星しか眼中にありません」と大きなことを言っていた。

 しかし、なかなか二つ星は取れず、毎年の発表前後は、誰も口がきけないほどイライラしていた。徐々に星までの距離の厳しい現実が分かったのだろう。17年に二つ星に昇格したが、圭さんはあまり「三つ星」と言わなくなっていた。

 星の数の発表はシェフの人生を左右する。18年版までミシュランは発表の前日に連絡をしていた。発表日が月曜日の場合は、基本的に土曜日の晩までに電話が来ていた。月曜日の朝ぎりぎりにかかってくる時もあるので、毎年、星を目指すシェフたちはものすごい緊張感の中で一本の電話を待っていたのだ。

 19年版からはさらに残酷になり、シェフたちは発表会に招待されるだけで、星の有無はぶっつけ本番。会場の舞台でプレネック氏がレストランとシェフの名前を呼ぶ方式になった。

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