新年会ではゴッホの話になり、ゴッホも浮世絵(=ジャポニスム)に大きな影響を受けたというエピソードから、親しくしている新聞記者Iさんが年末に書いた記事を思い出した。
「写楽も北斎も 国宝ゼロの『謎』」がその見出し。浮世絵の多くが版画という複製品というのが理由だった。薄利多売の出版物で職業や身分を超えて誰もが欲しがった浮世絵は江戸土産にもなるほど人気を博したが、それが逆に低俗ともみなされた。有澤さんによると、そこにもう一つ理由があり、「当時は手書きで、流通しない『写本』がおしゃれとされていた」という。「世に流通していないこと。そこに価値があったのです」
浮世絵のクリエイティブほど世界の芸術に影響を与えたものはないのに、本家の日本での地位はそんなものなのか。複製であろうとなかろうと、創造にかけた芸術家の魂こそ評価されるべきなのでは。形式にこだわる役所の手続きの限界なのだろうか。街中華に舌鼓を打ちながらも僕はつらつらそんなことを考えた。鑑賞したばかりのゴッホの糸杉を思い出した。作品はなかなか売れず、ゴッホは貧困の中、世を去った。しかし現在彼の作品は世界の宝となっている。街中華と日本料理。日本料理とココイチのカレー。ゴッホと浮世絵。いずれにしてもモノづくりには幾千の夜に及ぶ孤独な探求と作業があるのは間違いない。日暮里の夜、ゲイジュツの行く末を考えた。
※週刊朝日 2020年1月31日号