半世紀ほど前に出会った97歳と83歳。人生の妙味を知る老親友の瀬戸内寂聴さんと横尾忠則さんが、往復書簡でとっておきのナイショ話を披露しあう。
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■横尾忠則「嫌なことはしない老齢の生き方、なるようになる」
セトウチさん
この往復書簡ではぼくがいつの間にか往の立場になって、何か話題を提案しなければいけないのですが、毎回、何を話題にしていいやら困っています。前回は人間が死んだら、どこへ行くのかしら?という仮定の話をしましたね。死んだら無になると考える人は大半ですが、ぼくは死んでもぼくでいることは続くと思っています。
今、ぼくがここにぼくとしているのも、かつて生きていた(前世での)行ないの結果、今の人生で帳尻合わせの体験をさせられていると思っています。こうして人間は死ぬことで、再びこの世で生を得て、生かされるんだと思います。
生きている間も大変ですが死んでからも大変かも知れません。勿論全然大変でない人もいるでしょうね。それを決定するのは結局自分自身だから、天国に行くのも地獄に行くのもその本人の内なるエンマ大王が決めるんだと思います。その人間の欲望と執着の強弱で決まるんじゃないでしょうか。強烈な欲望を持ったまま死ぬ人は大変だと思います。特に名誉欲の強い人は、物質欲や色欲の強い人よりも大変かも知れませんね。
そんなことに気づいたぼくは、70歳になった時、『隠居宣言』という本を書いて、社会的な欲求よりも個人的要求に重点を置いて、依頼される面白い仕事よりも、自分の好き嫌いで仕事を選ぶようにしてきました。いくら社会的に評価されようとも、自分で納得のいかない仕事は極力避けて、好きなことだけして、嫌なことはしないという方針に生き方を切りかえてきました。すると仕事が全て遊びに変換されることに気づきました。人がどう見るかは問題外というか、どうでもいいことになっていきました。いい意味での我が儘です。老齢の生き方はこれしかないと思っています。そうすると、依頼される仕事も、好き勝手にできるような種類の仕事がやってきます。それでも断ることも多いです。そして断る楽しみも出てきます。