年齢を重ねても昔習ったことは覚えているもの。「いい国(1192)つくろう鎌倉幕府」などと、日本史の出来事を語呂合わせで暗記した人も多い。だが、研究が進み新たな学説も登場している。大きく変わった歴史教科書の今と昔を見比べ、知識をリフレッシュしてみませんか。
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日本最大の古墳と聞かれ、堺市の「仁徳天皇陵」とすぐに浮かんできたあなたは古代史が好きだったのかもしれない。
この仁徳天皇陵を含む古墳49基からなる「百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群」は7月、ユネスコ(国連教育科学文化機関)によって世界文化遺産に登録された。古墳群は4世紀後半から5世紀後半にかけてつくられ、中央集権的な国家ができていく過程がうかがい知れる。形や大きさが様々なのは、権力の強さが時期によって異なり、建造技術の発達などもあるためだ。
なかでも仁徳天皇陵は長さが486メートルに及び、エジプトのピラミッドや中国の始皇帝陵などと並ぶ世界最大級の墓だ。名づけたのは古墳を管理する宮内庁。幕末から明治時代にかけて、『日本書紀』や平安時代の法令集『延喜式』などをもとに被葬者を指定したと言われる。
だが、近年の教科書では、この名称を主には使わず、「大仙古墳」や「大山古墳」と表記している。実は誰が埋葬されているのか学術的には定まっておらず、仁徳天皇ではないという説も有力だ。論争のある被葬者名ではなく、地名を元にした遺跡名で呼ぶことが定着し、教科書でも採用されるようになった。
4世紀から7世紀にかけて勢力を広げた中央政府「大和朝廷」の呼び方も変わった。いまは「ヤマト政権」と書かれることが多い。
朝廷には「天皇が政治を行う場所」という意味もある。当時はまだ、天皇を中心とする国家はなく、組織も整っていなかった。そのため「朝廷」と呼ぶのはふさわしくないという見方が一般的になり、朝廷の代わりに、政権や王権という表現が使われるようになった。「大和」という地名と区別するために、「ヤマト」と表記されることが多くなった。
古いお札でおなじみの聖徳太子も、最近の教科書では「厩戸王(うまやとおう)」と表現されることが増えた。
古典で聖徳太子という呼称を確認できるのは、死後100年以上経った8世紀半ばの漢詩文集『懐風藻(かいふうそう)』だ。8世紀前半の『日本書紀』には「厩戸皇子」との記述があるが、「皇子」という尊称は聖徳太子より後の7世紀後半の天武朝以降に用いられた。