「鎖国」という用語も慎重に使われるようになった。江戸幕府は国を閉ざしていたわけでなく、長崎を窓口としてオランダや中国と交易していた。対外的な窓口は長崎以外にも対馬や薩摩などがあり、東アジアの国とも限定的ながら、つながりを保っていた。そこで「鎖国」とカギカッコ付きで表したり、「いわゆる鎖国の状態」などとしたりするようになっている。
山本さんは、鎖国は研究者の議論によって教科書の表現が変遷するケースだと指摘する。
「江戸時代も海外と交流があったことは以前からわかっていました。幕府自身も鎖国と言っていましたし、明治にかけて開国するときに大騒ぎしたことを鎖国という言葉を使わなければ説明できない部分もあります。幕府が鎖国した目的を含め、学界での議論や見方は変わってきています。それに応じて、鎖国という言葉を使うことに慎重になったり、やはり元通り使うようになったりしています」
薩摩・長州両藩兵を中心とする新政府軍と、会津や桑名藩を中心とする旧幕府軍による戦いは、「戊辰(ぼしん)の役」と呼ばれたこともあったが、いまは「戊辰戦争」と呼ばれている。
「役」も「戦争」も、同じ戦いを意味する言葉だが、戊辰戦争ではアームストロング砲などの近代的な兵器が使われ、武士だけでなく農民らも兵士として参加するなど、より近代的な戦いだった。そこで、戦争という言葉を使うようになったという。
また役には、官軍(朝廷)の立場から「賊軍に対する戦い」というニュアンスもある。より客観的な視点からとらえるため、役という言葉が使われなくなったとの指摘もある。かつての「西南の役」も「西南戦争」と言うようになった。
ここまでみてきたように、歴史的な事実や人物の評価は、時代と共に移り変わる。山本さんはこう言う。
「同じ歴史でもいろいろな見方があります。教科書は絶えず変わっていくものなのです」
教科書は絶対ではない。世界史でも、「セポイの反乱」(1857~59年)を、セポイ(インド人軍人)だけでなく幅広い階層を巻き込んだものだったとして、「インド大反乱」と呼ぶようになっている。地理でも世界一長い川はナイル川とされてきたが、アマゾン川という説もある。
昔の記憶が通用しないのは残念だが、新しい知識を学べるチャンスでもある。教科書を思い返しながら、また勉強してみよう。(本誌・池田正史)
※週刊朝日 2019年11月29日号