「ただ復古だけでなく、新たな試みも行っています。その一つとして、日本が開国して世界に乗り出す意気込みを示そうとしたのです」
革新的な試みとは、紫宸殿(ししんでん)の南庭に地球儀を置いたことである。幕末に水戸藩の徳川斉昭が孝明天皇に献上した地球儀があったので、それをしつらえた。即位式では明治天皇がそこに足をかけて世界を見渡すような演出を考えたのであるが、当日雨模様のため地球儀は南門の下に移されている。
そのころ明治天皇は数え17歳。まだ戊辰戦争の最中であったから即位式の進め方も急場しのぎの感はいなめない。その後、明治政府は皇位継承に関する法制と儀礼を整備するための検討を重ね、明治22(1889)年に旧皇室典範を制定し、20年後に施行細則の登極令(とうきょくれい)を規定している。
登極令は明治42(1909)年に公布され、旧皇室典範に基づき、皇嗣が天皇の地位を受け継ぐ践祚(せんそ)と改元、即位礼や大嘗祭(だいじょうさい)などの細則を定めている。
「とりわけ即位の礼は、式次第だけでなく、何をどうするか、設備や装飾はどうするか、たとえば高御座の作り方まで、細かく規定しています。こうした準備をしていたので、数年後に迎える大正天皇の即位式も大嘗祭もしっかりと執り行われました。それが近代の即位礼のモデルとなっていくのです」
その後、昭和も平成も、基本的に大正の即位の礼を踏襲して行われた。
高御座は大正のときに立派に復元され、幕末までのものより2割ほど大きくなった。それとともに皇后用の御帳台(みちょうだい)も新たに作られた。従来の即位式は天皇のみであったが、近代の即位式では両陛下そろって出御(しゅつぎょ)することになったからである。その高御座と御帳台は昭和と平成を経て、令和でも使用される。
大正天皇の即位礼は準備期間が十分にあったから、広く国民にも知れ渡った。即位礼が近づくに連れ、全国的に祝賀ムードが盛り上がった。とりわけ即位礼も大嘗祭も行われる京都では、御所の近辺も市内も整備され、新たなホテルやレストランなども数多く建設され、古風な町並みを残しつつ、モダンに生まれ変わっていった。
「京都の発展は、大正と昭和の即位礼と大嘗祭がここで行われたことが大きいと思いますよ」
それだけ国民の期待も大きかった。絵はがきや絵巻など、新天皇の即位を祝う品々もあふれた。中には高御座と御帳台だけでなく紫宸殿の全景をミニチュアで作り、東京などで展覧会まで開いている。ただ、貞明皇后は大礼の準備中に懐妊したので、11月の即位礼に出られなかったが、事前に作られた絵巻や絵はがきでは両陛下が描かれている。