TOKYO FMのラジオマン・延江浩さんが音楽とともに社会を語る、本誌連載「RADIO PA PA」。今回はボサノヴァについて。
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ター坊こと、大貫妙子さんには、20代の頃から音楽のこと、人生のこと、酒のたしなみなど、様々なことを教えてもらった。『仮想熱帯』や『空想紀行』という対談番組に、坂本龍一さん、沢木耕太郎さん、細野晴臣さん、大滝詠一さんら、彼女を慕うゲストが毎週やって来た。洒脱な大人の会話に自分は未熟だと知ることも多かった。
そして、音楽についても自分にはまだ早いと思うジャンルがあった。
その一つがボサノヴァだった。
ボサノヴァの神様、ジョアン・ジルベルト初の東京公演は2003年9月。奇跡の来日といわれたが、チケットを買わなかったのはそのためだ。
国際フォーラムの開演時間になってもジョアンは現れず、今ホテルを出た模様ですとのアナウンスに会場が沸いたとか、1時間遅れでステージに現れると満員の聴衆が優しく大きな拍手で迎え入れ、ギターを弾き始めれば水を打ったような静寂に包まれたとか、ター坊からそんな話を聴いた。
「途中で動かなくなっちゃったと思ったら、寝ちゃったの」
「日本の聴衆は素晴らしかった。彼らを私は何十年も探していた」と言った彼の作品を番組で選曲するようになったのは、『ジェットストリーム』にかかわるようになってから。ようやくボサノヴァに追いついたと思ったのに、ジョアンは表舞台に出ることはなくなっていた。そして先日、88歳でこの世を去った。
「ジョアン・ジルベルトを探して」という僕の気持ちそのままのタイトルの映画を観た。
フランスとスイス二つの国籍を持つ映画監督がブラジルに赴き、伝手(つて)を頼ってジョアンに会おうとするドキュメンタリー。ジョアンは外出もせず、友達付き合いも電話だけ。食事にしても、レストランのシェフに、料理を作って皿を玄関前に置いておいてくれと頼む生活である。『ライ麦畑でつかまえて』のJ・D・サリンジャー同様、若くして天才と呼ばれるようになった芸術家は早々に隠遁を決め込むのだろうか。