北朝鮮のミサイルがこわいと思っている日本人に教えてあげたいことがある。
【写真】1983年、北朝鮮との軍事境界線の南側で警備中の韓国陸軍の兵士の様子
反共宣伝に熱中してきた日本のテレビ解説者たちが、あまりに史実を知らないので、私は驚いている。韓国の首都ソウルで夏季オリンピックが開催されたのは今を去るほぼ30年前の1988年で、その翌年、ベルリンの壁が崩壊して東西冷戦が終わった時期に、私が韓国を訪れたことを述べる。
原子力発電は核兵器に通じるテクノロジーなので、当時の韓国では“原発反対運動は死罪になる”と言われた時代だったが、その時、私は韓国の市民運動に招かれて、生まれて初めて韓国に入った。
当時、東京の私の自宅に「韓国電力公社」から脅迫めいた電話がかかってくる関係にあったので、「広瀬隆は入国できない」と言われながら、韓国の諜報工作機関である恐怖組織の国家安全企画部(安企部=あんきぶ)が、私を泳がせるために入国させたに違いなかった。事実、韓国内に入った私は、安企部に監視されて尾行され、走って尾行をまきながら移動して講演をたびたびおこない、“韓国最初の”原発に反対する市民デモの先頭を歩かされた。最後には私も身の危険を感じてホテルを変えたが、私の行動はすべて安企部に把握されていたので、ホテルを変えても意味がなかった。
その間、韓国内に米軍の核ミサイルが大量に配備されている図面を見せられた私は、南北朝鮮の軍事的対立の実情を知るため、列車に乗って北緯38度線近くの北朝鮮国境まで連れてゆかれた。途中で列車の乗客がほかに誰一人いなくなって心細くなるうち、やがて北朝鮮との危険な国境の板門店(パンムンジョム)に着き、北朝鮮に向けて配備されている「米軍の核ミサイル基地」近くまでタクシーで行った。その時、タクシー運転手から「これ以上近づけば殺される。絶対に基地の写真を撮らないでくれ」と警告を受けた。
このように過去半世紀以上にわたって、韓国側から北朝鮮をおそろしい核兵器で威圧してきた張本人はアメリカだったのである。