――そのことを知ったのは1980年、テレビのご対面番組だ。スタジオに来たのは年老いた彼の両親だった。その人は水永龍男君といった。疎開先の広島で原爆直下で、遺体も遺品もないのだと聞かされた。
あのとき私の涙を撮ろうとして、カメラが3台、バーッと寄ってくるのがわかった。でもここで泣いたらダメ、絶対に泣くまい、と思ったんです。
原爆という、同じ人間が作った恐ろしいものが、同じ人間の上に降りかかって、そして一瞬のうちに水永君はいなくなってしまった。その恐ろしさ、悔しさ、理不尽さで震えました。とにかく、泣くということを通り越していたんですね。
あのとき泣いていたら「ああ、龍男君はかわいそうだったわね」でおしまいだったと思う。でも彼は泣けない何かを私にくれた。
――5年後の85年から現在まで、18人の女優と原爆の朗読劇を続けてきた。演じる女優たちが自らチケットを売り、宿の手配など裏方もすべてこなす。さすがに体力の限界となり、朗読劇はこの夏で幕を閉じる。
私は何を戦争中に失ったかといったら、当たり前の普通の生活、人間としての自然な生き方──食べて、寝て、学んで、遊ぶ、そういうものを全部、なくされたんですよね。食べるものはなくて、常に飢えていたし、真夜中の12時になると空襲警報が鳴って、半分眠りながら、父が掘ったジメジメした防空壕に入って、落ちてくれば死ぬに違いない爆弾と焼夷弾の音を聞き分けながら2、3時間を過ごして。
体育の時間には棒をもたされて、「えい! えい!」と突く練習をさせられた。先生は言います。「敵兵が飛行機からパラシュートで降りてきたら、こうやって戦うんだぞ」って。つまり人を殺す練習ですよ。それを何の疑いももたずに「えい! えい!」と一生懸命やっていた。
あのころの私たちは、風に吹かれていました。
軍国主義の風というものが日本中に吹き荒れて、疑いもせずに、その風にみんなが巻き込まれた。だから国が起こす「風」って、ものすごく怖いと思うんです。そういう風が吹き始めると、みんなそれに巻き込まれる。逆らう人は、疎外される。そういうふうにして戦争って始まるんだと思うんです。その怖さは身に染みて知っています。
終戦の次の日から、真逆の風が吹き始めたんですから。それにいち早く順応していく人間って怖いですよね。
だから危険な風が吹きそうなときに敏感でいたいです。普通に人間らしく生きていきたいですもの。
(聞き手・中村千晶)
※週刊朝日 2019年7月12日号
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