――そんななか、上司のある言葉で人生の「目」が変わりはじめる。

「営業部員になれ」って言われたんです。「お前、忘年会や送別会でみんなを笑わせるじゃないか。あの調子で売ってこい」って。たしかに人を笑わせるのは好きだった。へえ、オレっておもしろいんだと勘違いしましてね、一か八か役者を目指して東京に行ってやろう、と。

 実は小豆島時代、映画は山ほど観ていたんです。長兄が映写技師でおふくろがその映画館でもぎりをやってた。だから毎日タダで潜り込んでね。それで知らず知らず、俳優への憧れがあったんでしょうね。

 特に三木のり平さんに憧れてね、どこかで「ああいうふうになりてえな」と思ってた。脇の脇でも、飯くらい食えるんだろう、って。

 兄貴は「どういう了見だ!」ってカンカンで、すったもんだありましたけど、結局おふくろに毎月仕送りをする約束で、上京したんです。

――東京・青山の高級スーパーでアルバイトをしながら、毎月必死に仕送りをし、劇団の研究生として月謝を払った。そんな日々のなかで、大きな出会いがあった。

 バイトの休憩時間に通ってた喫茶店の常連が高倉健さんだったんです。あるとき「サブちゃん」って声かけられた。喫茶店のママが「サブちゃん」って呼ぶのを憶えていてくれたんでしょうね。

 ママさんが「この子、役者目指してるのよ」って言ってくれて。「それでバイトしてんのか」「そうなんです。でも劇団の研究生なんて金取られるばっかりで、ダメですよ」なんてぐちったら「じゃあ東映に来いよ。金もらえるから」「え?」「通行人とかエキストラだけど、出演料がでるからさ、そこで勉強すりゃいいじゃないか」「はい! お願いします!」。それで東映の大部屋に入れてもらったんです。

――高倉健さんから一文字もらい、石倉三郎、を芸名にした。だが、やがて東映を辞めることになる。

 大部屋俳優ってホント、厳しいですよ。それに演劇部にオレをいじめるヤツがいたんです。将来のスター候補であるニューフェースとかにはものが言えないから、そんな可能性のないオレたちをいじめる。とうとう堪忍袋の緒が切れてね。そいつを殴っちゃった。

 みんな向こうも悪い、とはわかってくれていましたが、もう東映は辞めるしかない。「網走番外地」シリーズのロケ中だったから、健さんにすぐに呼ばれてね。そのとき言われたんです。

「ヤクザの世界では『膝まで泥水につかる』って言うけど、サブちゃん、この世界に首までつかる度胸はあるか?」って。「あります」って答えたら「じゃあ、がんばれ」と。そしたら俳優、辞めるわけにいかないじゃないですか。

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