もし、あのとき、別の選択をしていたら──。著名人に人生の岐路に立ち返ってもらう「もう一つの自分史」。今回は、高校時代に夏の甲子園で延長18回を投げ抜いた元投手で、プロ引退後はテレビや映画の世界で親しまれてきた板東英二さんです。意外なことに「野球なんて」と言います。引き揚げ者として歩み始めた、波乱と不屈の道のりをたどります。
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野球なんて、全然、好きじゃありませんでした。なりたい、と思った覚えもないのに、いつの間にかプロ野球選手になっていました。ほんと言うと、「生活の手段」としてやっていただけなんです。
――旧満州生まれ。幼い頃に終戦を迎え、極限状態をしのいで引き揚げてきた板東にとって、「自分の稼ぎで食えるようになること」は何より大切だった。食うためにはカッコイイことなど言っていられない。そんな考え方で、ずっともがいてきた人生だという。
虎林という町にいて、敗戦になったら、すぐにソ連兵が入ってきました。そこから2年がかりで帰ってきたんです。
屋根のない貨物用の車両に乗せられましてね。落ちないように子どもは真ん中に置いて、そのまわりをヒモでお互いの体をくくりつけた女の人たちが囲む。いつとまって、いつ動き出すかわからない。とまったら、女の人が車両の下で急いで用を足すんです。いきなり動き出して車両の下から「ギャー」っていう悲鳴が聞こえてきたこともありました。
その声と、だだっ広い、何にもない原野に沈む夕日は、今でも頭の中に残っています。
おやじの故郷の徳島県に、やっとこさ引き揚げてきました。いつもおなかをすかしていて、畑の作物もよくちょうだいしました。「板東は金に細かい」とか「板東はがめつい」とか言われますけど、人間、食うことがいちばん大事だと、その頃の体験を通して体にしみついているのかもしれません。
中学を出たら集団就職する予定でした。ほんまは学校の先生になりたかったんですけどね。小学校のとき、担任だった先生に憧れてまして。自分で言うのも何ですけど、勉強はわりと得意だったんです。
中学生のとき、学校に野球道具が送られてきました。初めてグローブをはめて、ボールを投げてみたけど、まあまあ上手にできたみたいです。体力もあったし、すぐにピッチャーをやることになりました。野球でスカウトされて徳島商業に入ることになった。進学できたことで、諦めていた先生になる夢が、可能性としては残りました。
ただ、入ってみると練習練習で、勉強どころではありません。授業中も寝てばかりです。監督やコーチの言うことには絶対服従で、とにかくどつかれまくりました。