かつて私は、米国で彼らの同窓会を取材したことがあるが、すでに全員が80代から90代の老境を迎えていた。だが、その何気ない会話に天皇やマッカーサーの知られざる逸話が次々と飛び出し、まさに歴史の目撃者、GHQ最後の生き残りという気がした。

 また昔の写真を見ると、二重橋前で制服姿の隊員がずらりと整列し、皆、精悍さを絵に描いたような若者ばかりだ。ただ天皇の住まいである皇居に背を向けたような姿に、戦勝国のプライドを感じたのも事実だった。その時に知り合ったのが同窓会「マッカーサー儀仗兵連盟」のバレー会長で、彼のメッセージに話を戻そう。

「第2次大戦中、私は天皇や東條(英機元首相)たちを軽蔑するように教えられて育った。だが、戦後になり天皇裕仁が元帥と協力し、全国を回って人々に希望のメッセージを伝えていたのを知り、尊敬の気持ちを抱くようになっていった。元帥と天皇の素晴らしい関係こそ、日本の復興と繁栄への道を開いたと言えるだろう」

■GHQから電話、殿下は試験パス

 儀仗兵隊が歴史の目撃者になり、語り継がれるエピソードとなった場所、その一つがGHQの置かれた第一生命ビルである。ここはマッカーサーの執務室や新憲法の草案を作った民政局などが入り、日本占領の司令塔の役割を果たし、そこの警護は彼らの重要な任務だった。

 建物の6階の南に面してマッカーサーの執務室があり、その外の廊下でライフルと45口径の拳銃を持ち、階段やエレベーターからの来訪者を警戒する。そしてある日、儀仗兵隊の前を、まだ幼さを残した日本人の少年が、緊張した面持ちで通り過ぎた。それから40年後に天皇に即位する皇太子明仁、その人であった。

 1949年6月27日の午後7時、皇太子は米国人の家庭教師エリザベス・バイニング夫人に伴われて、車で第一生命ビルに到着した。

 マッカーサーと直に対面するためで、バイニングの回顧録によると、皇太子の教育参与だった小泉信三は、彼女にこう語りかけたという。

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