「日本の皇太子がただ一人で西洋の婦人と同乗して、西洋人に会いに行かれた最初の日として、こんどのことはわが国の歴史に記録されるでしょう。(中略)これは、皇室ばかりでなく、日本の全国民があなたを信頼していることを示すものです」(『皇太子の窓』)

 武装した儀仗兵の前を通り過ぎた皇太子は、執務室で約20分、マッカーサーと英語で会談したが、同席したバイニングはこう振り返っている。

「私は、征服者である一人の将軍が、昨日までの敵の息子をくつろがせ、前途有為の少年に対する年長者の温かい興味といったものを示しながら、しかも同時に一国の皇太子への当然の恭敬の色を見せながら、殿下に話しかけている姿を見た。私はまた、敗戦国の皇帝の子息が、昨日までの敵の頭目に面と向いあって、おめも臆しもせず、少年らしい威厳を保って、率直に受け答えしている姿を見た」

 その直後、GHQの幹部からバイニング夫人に電話が入った。

「殿下は物の見事に元帥の試験にパスされたようです。元帥は部屋から出て来るとすぐ、殿下から実によい印象を受けた、殿下は落ち着いて、まことに魅力的なお方だった、と言っていましたよ」(同)

 他国の皇太子を試験というのも変な話だが、当時の皇室とGHQの関係を示すエピソードである。この15歳の少年がはたして将来の天皇となるに相応(ふさわ)しいかどうか、首実検したのだ。その結果が皇室はもちろん、日本の将来を左右し、それを皇太子は正面から堂々と受けて立った。

「あの若い皇太子を覚えている」という儀仗兵隊は、まさに歴史的場面に立ち会ったのだった。米バージニア州にあるマッカーサー記念館は、今でも執務室を訪れたゲストの記録を保管するが、当日のページを開くとAkihito(明仁)と直筆の署名が残っていた。

 やがてマッカーサーが最高司令官を解任されると、儀仗兵隊も解散して帰国した。その後、バレーはGIビル(復員兵の学費援助を行う制度)で大学を卒業して就職結婚するが、1970年代と80年代は日系企業との合弁会社幹部も務め、家族と東京に移り住んだ。そして、この頃から日本を見る目が変わっていったらしい。かつて私とのインタビューで、こう語っている。

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