たしかに、老人が立錐の余地もない車内を降車口まで移動するのは無理だ。

「ダメなんです。決まりなんでね」

 すると、やはり料金箱の近くに立っていた初老の男性がお婆さんに加勢した。

「前から降ろせばいいだろ」

 運転手は頑として応じなかった。結局、周囲の人が協力して道を作ってお婆さんを降ろした。バスの中は完全に、運転手vs.乗客という構図になってしまった。

 それからいくつ目かの停留所で、お婆さんに加勢した男性の声が響いた。

「前から降りるよ」

 男性はざまあ見ろとでも言いたげな、堂々とした素振りで前から降りていった。

 昭和君が小声で言った。

「パパ、前から降りたね」

 バスがようやく終点の駅に到着すると、停留所にはすでに長蛇の列ができている。爆発寸前だった乗客たちが、無言で降りていく。

 突然、大センセイの胸に何かがこみ上げてきた。

 運転手の態度はたしかに不愉快だったけれど、でも彼は就業規則に忠実だっただけではないのか。運転手は休む間もなく、たったひとりで大勢の乗客の命を預かりながら、いま来た道をまた戻っていくのだ……。

「どうも、ありがとうございました」

 思わず運転手に頭を下げた。運転手は、ひどく驚いた顔をした。

「えっ、ど、どうも」

 彼は自分が感謝されるとは思っていなかったのだ。

 昭和君が呟いた。

「ひとりだけ、ありがとうしたね」

 君は何を感じただろう。

週刊朝日  2019年3月1日号

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