高校2年で出場した全日本総合選手権シングルスで優勝。史上最年少で日本の頂点に立った奥原希望(23)は、バドミントン選手として「日本人初」の快挙を連発してきた。2015年のスーパーシリーズファイナルで優勝、翌16年のリオデジャネイロ五輪では銅メダルを獲得し、17年の世界選手権も制した。
その原動力は、負けん気の強さ。父の圭永さんは、小学3年のマラソン大会のことが忘れられないという。
「スタート地点で『用意』の声もかかっていないのに、気合を入れて構えていました。スタートして10mくらいで靴が脱げてしまい、一番後ろを走ることになったんです。その後ものすごい勢いで巻き返して2位になったんですが、ワンワン大泣きをしました」
活躍の一方で、再三けがに悩まされてきた。常に全力で駈け回るプレースタイルが身体に負担をかけるのだ。
世界選手権で勝った後の17年秋、右ひざを負傷。シーズン後半から大会欠場を余儀なくされた。18年は「試合に出られるかどうかというところからのスタートでした」という苦しい状態だった。
そんな奥原が「あの大会は大きな転機になった」と手ごたえをつかんだのが、18年5月の国・地域別対抗戦のユーバー杯。大会前の会見で
「全部全力では息切れします。紙に『適度』と書いて壁に貼りました」
と笑みを見せ、髪を40センチメートル切って臨んだ。
結果は6試合にフル出場し、すべてストレート勝ち。日本チーム37年ぶりの優勝に貢献した。
「自分の思うようなプレーができるか不安でしたが、試合を重ねるごとに充実していきました」
コートに出入りする際は丁寧にお辞儀をする。
「けがをして、当たり前にやれていたことが実は当たり前ではなかったということを知りました。それができることへの感謝です。それと、バドミントンの顔として取り上げてもらうことがあるので、代表者として前に出るべき人の像を想像して。実際は競技のことでいっぱいなんですが、器の大きい人になれたらいいなと思います」
現在、バドミントンでは「絶対女王」と呼ばれるほどの強さを示す選手はいない。主要大会での優勝者が猫の目にように変わる。
「年間を通じて大会が行われるバドミントンでは、絶対に勝ちに行く大会、流して参加して調整する大会などいろいろあるんです。18年まではいい意味で失敗できるので、いろんなことに挑戦して引き出しが増やせればと思っていました。でもオリンピックレースの始まる今年は、狙った大会のタイトルをしっかりと獲りたいと思います」
18年末に所属していた日本ユニシスを退社し、プロに転向。色紙に今年の抱負を書いて欲しいと頼むと、「覚悟」と記した。日本人初の五輪シングルス金メダル獲得に向け、今年は「絶対女王」と呼ばれるほど勝ち続ける。(本誌・菊地武顕)
※週刊朝日 2019年1月18日号