不可解だったのは、その後の自分の心理であった。置いてきたダウンがどうなったか、知りたくて仕方ないのだ。本来なら捨ててしまったはずの物が、狙い通り“再利用”されているかどうかを確かめたくてしょうがない。

 そこで数日後、大センセイは斥候のごとく河原の草むらに身を隠しながら、ホームレス氏の様子を探りに行ったのだった。すると、あの真っ赤なダウンジャケットを着込んだホームレス氏が、小屋の前で何か作業をしているではないか。

 表情はわからなかったが、その後ろ姿を見届けたとき、胸のあたりにじーんと満足感が広がるのを覚えた。ダウンはちゃんと役に立っていたのである。

 さてこの行い、喜捨と呼べるのかどうか……。

「貧しい人に施し物をした」のはたしかだ。しかし、大センセイが施したのは、そもそもゴミとして捨てるはずのものであった。しかも、それが再利用されていることをこの目で確認しなければ、気が済まなかったのだ。

 喜捨が執着を捨て去るための修行だとすれば、むしろ大センセイの行いは、執着そのものだったのではないか。いや、単なる執着とも違う。汚れた服は着たくないが、さりとて、まだ着られる服を捨てるのは嫌だ。ならば、それを有り難がって着そうな人にやればいいではないか……。

 明らかに大センセイ、ホームレスの人のことを低く見ていたのだ。

 橋の下の小屋はある日突然、消え去った。おそらく、ホームレス氏もろとも“撤去”されてしまったのだ。

週刊朝日  2018年12月21日号

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