「じゃあ、Tさんはどんなときに豊かさを感じるっていうんですか」
「そうさな。布団に寝っ転がって好きな文庫本を読みながら、そのまま居眠りしちゃうときかな」
Tさんとの会話のほとんどは、夢と現(うつつ)の間で交わされているような、大勢にはまったく影響のないものばかりだったが、このひと言はよく覚えている。その豊かな感じが、よくわかったからだ。
後日、この話をKさんという女性編集者にすると、なぜか彼女は複雑な表情を浮かべた。
「実は私、この前、南フランスのプロバンス地方をひとりで旅してきたんです」
リッチなことである。
「ところがですね、出国する前の晩から、なぜか大沢在昌の『新宿鮫』を読み始めてしまったのです」
Kさんはアイドル風の童顔で、およそ鮫とか毒猿とか屍蘭とか無間人形とは縁のなさそうなタイプである。
「そうしたら読むのをやめられなくなってしまって、仕方ないのでNEXの中で読み終えたら成田で捨ててしまおうと思ったんです」
致し方あるまい。
「でも、ぜんぜん読み終わらなくて、結局、プロバンスまで持っていきました」
ホテルに着いてからも、Kさんはやめられず、ろくに観光もせずに、ベッドに寝転んだまま読み耽ってしまったという。
「せっかくプロバンスまで行ったのに、頭の中はずーっと歌舞伎町でした」
一冊の文庫本が生み出す暗黒世界が、南仏の陽光にまさったのだ。豊かさと経済は、たぶん関係ない。
※週刊朝日 2018年10月12日号