〈そして、捜索から8日後に東京・南千住で国松孝次・警察庁長官狙撃事件、4月23日には東京・南青山のオウム教団総本部で村井秀夫幹部刺殺事件などが相次いだ〉
村井が刺殺された時、麻原に消されたんじゃないかなと直感的に思った。村井はサリン製造の統括責任者で事件のカギを握っていた。しかし、刺殺事件の背景はきちんと解明できないままに終わった。
当初、私はオウムの連中が偽造免許証を使って逃走した事件を担当していた。オウム信徒がレンタルビデオ店のアルバイト店員になり、免許証の写しを盗んで教団に渡していた。逃げた店員を捕まえたら、チオペンタールという薬を打たれて、記憶喪失になっていた。取り調べても何も覚えていない。記憶を呼び戻そうと、もう一度ビデオ店で働かせたりしたが、記憶は蘇(よみがえ)らず、起訴できなかった。薬で本当にこういうことができるんだ、オウムもすごいことやる、とビックリした。
〈同年4月26日、サリン製造責任者だった土谷、遠藤らが上九一色村のオウム施設地下室に隠れていたところを逮捕。大峯氏は築地署特捜本部で土谷の取り調べを担当した〉
築地署に毎日、泊まり込み、土谷とは朝10時から夜中まで20日間、2階取調室で向かいあった。「おはよう」「お茶飲むか」などと話しかけても無言。微動だにしない。1週間ぐらいはずっと完全黙秘だった。当時、麻原はまだ逮捕されておらず、彼は麻原を“尊師”と呼び、教団を守ろうとしていた。
私は「麻原と組織を守りたいなら、君がしゃべらなければ、守れないよ。麻原ではなく、君がサリンを作ったんだろう? 君がしゃべらないと麻原を守れないよ」と話しかけたが、落ちない。落ちたのは、私が土谷の両親について話したことがきっかけだった。
〈土谷はオウムに傾倒していた91年7月、両親に連れられ、強制的に茨城県出島村(現かすみがうら市)の「佛祥院」に預けられた。両親はこの施設で必死になって息子を説得したが、その途中でオウムの街宣車が施設を取り囲み、「尊師が呼んでるぞ」「監禁するな」などと呼びかけた。すると、土谷は両親の元から逃げ出し、出家し、化学兵器製造にのめり込んでいった〉