優しかった、面白かった、頼もしかった……、人それぞれ、父親に対する思いを抱えている。どれも自分をつくってくれた大切な思い、でも、面と向かって直接伝えるのは難しい。週刊朝日では、「父の日」を前に、8人の方に今だから話せる亡き父への思いを語ってもらった。その中から、中井貴恵さんが語った父・佐田啓二さんのエピソードを紹介する。
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父が亡くなったとき、私6歳、弟(俳優の中井貴一)は2歳でした。自動車事故でしたが他の3人は重軽傷、後部座席にいた父だけが亡くなりました。
父との記憶は少なくて、どんな人だったのか、私にはわかりません。知りたかったし、この年になるまでつき合いたかった。家にいることも少なかったから、一緒にご飯を食べた記憶がないんです。習字を教えてくれたことは覚えています。父の書斎で筆を持たせてもらって、漢数字の書き方を習いました。父は筆まめで、字を書くことが好きだったんです。
母が言うには、父は私が母のお腹にいるとき、「生まれてくる子は男の子じゃなきゃ承知しない」と言っていたそうです。でもいざ私が生まれるとメロメロで、「将来は外交官と結婚させる」と言ったり、私の左手の甲のあざを見て、「あざがあるのはかわいそうだけど、左手に黒い手袋をしている女はかっこいい」なんて言っていたそうです。そのあざはもう消えてしまいましたが。きっと父は、大人になった私の姿を想像していたんだと思います。どんなふうに私を育てたかったのか、知りたかったですね。
私は大学生のとき、市川崑監督の「女王蜂」という映画で俳優デビューしました。自分にできるものかといろいろ迷いましたが、「一本だけ」と思って出演してみたんです。当時、どの雑誌や新聞を見ても、私の名前の横に父の名前が燦然と輝いていました。父の偉大さを改めて感じ、大変な仕事を引き受けてしまったんだと思いました。
今、私は父が残してくれた家に住んでいます。私と同じ年なのでだいぶ朽ちてきましたが(笑)。母は父の死後も外に働きに行くことなく、父が残してくれたものを何一つ手放さず、やりくりしながら私と弟を大学まで出してくれました。母は相当苦労したと思いますが、当時“銀幕のスター”と言われていた父はかなりの報酬を得ていたのだと思います。そしてそれを家族のために残してくれた堅実な家庭人としての父の姿に、頭が下がります。
20年前、父の最後の法要となった三十三回忌の席で、「今日は父の悪口を教えてほしい」とお願いしたんです。私と弟は母や父と付き合いのあった方々から父を知りましたが、「いい人だった」という話はたくさん聞いてきたので。いろんな話が出て来て、楽しかったですね。高峰秀子さんは「撮影所から家まで車で送ってもらうとき、『途中でトイレに寄ってほしい』とお願いしたのに、『女優がトイレになんかに寄っちゃダメだ』と寄ってもらえなかった」と教えてくださいました。皆さんが父のことを鮮明に覚えてくださっていたことに、お腹を抱えて笑うと同時に、胸が熱くなりました。(取材・文/野村美絵)
※週刊朝日 2018年6月22日号に掲載した記事に加筆