優しかった、面白かった、頼もしかった……、人それぞれ、父親に対する思いを抱えている。どれも自分をつくってくれた大切な思い、でも、面と向かって直接伝えるのは難しい。週刊朝日では、「父の日」を前に、8人の方に今だから話せる亡き父への思いを語ってもらった。その中から、息子の深作健太さんが語った父・深作欣二さんのエピソードを紹介する。
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世間では怖いイメージがあるかもしれませんが、親父はすごくやさしい人でした。若い頃はヒット作に恵まれず、やっと「仁義なき戦い」にめぐりあえた。そんなときに誕生したのが僕なんです。42歳という遅くにできた一人息子ですし、ずいぶんかわいがられましたね。
ただ、「仁義なき戦い」は京都で撮影していたので、親父が家にいることはほとんどなく、撮影所に遊びに行かなければ会えませんでした。ものすごく楽しそうに働いている親父を見て、僕は5歳のときに「映画監督になりたい」と言ったんです。
映画が好きで映画監督を目指す、という方が多いと思うんですが、僕の場合、現場が好き。大勢の大人が、真面目に真剣に遊んでいる姿が。父はよく、映画作りをお祭りにたとえていましたが、超一流の音頭取りでしたね。“深作組”の現場は深夜までかかったりして大変なんですが、その分ものすごく楽しい。時代とともに現場は変わってきましたが、僕も監督として、あの頃のような楽しい現場を作るように心がけています。
初めてケンカしたのは、「バトル・ロワイアル」(2000年)という作品を一緒に作ったとき。僕のプロディーサー・脚本家のデビュー作で、監督は親父。親子ゲンカというより、プロデューサーと監督として意見を戦わせました。
「バトル・ロワイアルII」(03年)では親父が途中で倒れ、僕が監督を引き継ぎ、制作中に親父は亡くなりました。大好きな親父の死という、非常につらい出来事ではありましたが、それまで半年以上一緒に準備してきた作品があり、スタッフもキャストも家族のようになっている。「作品を盛り上げていこう」という仲間がいてくれたおかげで、一本の映画を作り上げることに向かって行けました。支えられましたね。