明らかなのは撮った者も撮られた者も、けっして展示されることを望んでなどいなかったし、それ以前にこんなところに展示されるなど、想像すらしていなかったことだ。撮った者は美術作品を自分が撮っているなどとこれっぽっちも思っていなかったはずだ。
 ここが写真の興味深く、面白いところだ。ほかのメディアだと、こうは行かないのではないだろうか。例えば絵画には描く意思が絶対に必要だし、ある程度の時間が必要だ。描くモノを観察する必要もある。
 
 それが写真は違う。乱暴に言ってしまえば、撮る意思がなくても写ってしまう。極端なことを言ってしまえば、シャッターを間違って押しても、何かが写る。そんなふうに撮られてしまった写真が、案外面白かったという経験が私にはある。フィルムを使っていた時代、フィルムのカウントを1にもっていくまでに、何枚かカラ撮りするのだが、そこに何かが写ることがあった。そのなかに自分でも予期しないものが写るのだ。表現ではない表現といってもいいかもしれない。とにかく、それでも成立してしまうのが、写真というメディアなのだ。
 
 では何故、アートとして撮られたはずではない二枚の写真はここに展示されているのか。それは確実に人の心を打つからだ。写されている「こと」が絶対で、なにより絶望的だからだ。歴史の証言写真といってもいいだろう。これほど強烈な記録性を意識させる写真はそうあるものではない。もしかしたら美術館のキュレーターは、アーティストが作品として撮ったのではなく、表現として撮ったのでもないものとしてあえて、この写真を展示したのかもしれない。アンチアート、反表現として。
 
 最近、この二枚の写真のことを思い出す場面があった。震災後に読んだ、文章がきっかけだった。写真家の畠山直哉さんが書いた「誰かを越えた何者かに、この出来事全体を報告したくて写真を撮っている」(「アサヒカメラ」2011年9月号)と題されたものだ。
 畠山さんは岩手県陸前高田市の出身だが、震災直後にご家族の安否がわからないまま臨んだある写真関係の会議で、一人の写真家の発言を耳にする。
 「テレビで津波の中継映像を見ていて『ああ、いまあそこに自分がいたら、いい写真がとれたのになぁ』と思った」
と写真家が語るのを、畠山さんは直接、聞く。
 「いい写真って、たとえばどのような?」
 畠山さんが訊ねると、
 「たとえば流される自動車とか……」
という答えが返ってくる。
 その発言を畠山さんは否定しない。逆に〈写真撮影をなりわいとしている者なら、彼の「いい写真を撮りたい」という気持ちを理解できることと思います〉と記す。

 写真家は、いや写真を撮る者のすべてと言ってもいいかもしれない。誰もが「いい写真を撮りたい」と願う。そのために遠くまで出かけていったり、長い時間をかけて被写体を追ったりする。そうやって苦労して撮った写真は、そして撮った本人が満足した写真であっても、本当に「いい写真」なのだろうか。
 人をアッと言わせたり、驚かせたり、圧倒させるものが、果たしていい写真なのだろうか。
 少なくとも言えることは、「いい写真」とは、撮った本人にとっての「いい写真」でなく、誰にとっても「いい写真」でなくてはならない、と思う。そして、何より、けっして風化せず、時を経ても揺るがず、語ることをやめず、逆に力をもつ写真。漠然としているのだけど、それが真に「いい写真」だと私は思っている。
 そう考えると、ニューヨーク近代美術館で目にした、二枚の写真は、間違いなく「いい写真」ということになる。つまり「いい写真」とはうまい写真でもなく、きれいなそれでもなく、ときに、恐ろしく、ひたすら人の深いところをザワザワさせながら、語りかけて止まないものということになるのかもしれない。
 
 そもそもこの撮影者が誰なのかもわからず、被写体が誰なのかもわからない。撮影者はけっして「いい写真」を撮ろうなどとは思っていなかったはずだ。それでも、写真はまるで一人歩きするように、人から人の手に渡り、こんな遠い国の真っ白な壁に、流れ着くように辿り着いた。二枚の写真は、時をへて、時代が変わり、より重要な意味を持ってきた、あるいは持たされたといってもいいのかもしれない。そう考えると、「いい写真」とは、撮影者のものではない、ともいえる。
 私は撮影のためにフィールドに立つとき、さまざまな思いとともに、できるだけあの二枚の写真のことを思い出すようにしている。