天皇陛下が2019(平成31)年4月末に退位する。私たちが生きてきた「平成」という時代は何だったのか。週刊朝日 新春合併号では、政治や経済、事件・事故や芸能、スポーツまで、その分野を代表する識者に「平成30年史」を語ってもらった。その中から、ノンフィクション作家の保阪正康氏の寄稿文を紹介する。「平成」が提起した問題とは?
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平成があと1年4カ月余りで幕を閉じる。近代日本の天皇制にあった「崩御・即位」という図式が、今回は現天皇の生前退位による「退位・即位」といった形になる。平成を見つめる目は、先帝の死を起点とした空間とは異なった意味をもち、天皇制のあり方もまた変わっていくと思われる。
それだけに平成という空間を論じるのにも幾つかの新しい視点を持ちこむことができる。今上天皇が上皇、美智子皇后が上皇后となっても、ある世代は「天皇ご夫妻」といえば、今上天皇ご夫妻を思い浮かべるだろう。新しい天皇の即位後しばらくは二重構造になる。それが国民の各層にどのような影響を与えるのか。<「天皇」が2人いる>という心理構造が改めて試されるように思う。
上皇と天皇の国事行為と私的行為は明確に区分けされるだろう。この点に問題はないとも思われるが、今上天皇の公的行為にはどういう変化が起こるだろうか。今上天皇と皇后の国内外での戦争の傷痕を訪問しての追悼と慰霊は、今後どういった割り振りになるのか、その点もまた精緻に検証されていく。
そういう多様な視点の中で、私はあえて天皇と政治権力の違いを考えてみるべきだと思う。この両者の関係は改憲と絡みながら、よりわかりやすい形で整理していく必要があると考えている。その私的な見解を説明していきたい。
明治天皇は天皇制下の軍事主導体制をめざした。明治政府の軍事指導者たちは、天皇を神格化した存在に仕立てあげ、その存在を国民に強要した。軍を統率する天皇を神格化することによって、国民が生命と財産を託せる状態にしておきたかったのである。
大正天皇の時代も天皇制下の軍事主導体制であった。しかし大正天皇自身は漢詩や御製(和歌)をつくるのに並外れた才能をもち、軍事にはさして関心を示していなかった。そのために心理的に追いこまれる状態になり、その座を離れることにもなった。大正天皇自身は、天皇制下の非軍事体制をめざしたように思うが、それは認められなかった。
そして昭和天皇である。昭和20年8月までは天皇制下の軍事主導体制をめざした。まさに明治天皇を範にしたのである。この体制が崩壊したあとは天皇制という国体は戦後民主主義体制という政体と並列の関係になるはずだったのに、昭和天皇自身はその意識においては天皇制下の民主主義体制という自覚から抜け出すことはできなかった。
昭和50年代のことだが、天皇が国民を「赤子」との言葉で語ったことがあったという。宮内庁幹部はあわてて取り消した。昭和天皇は意識の底では、国体の下に政体を置く大日本帝国時代の発想から抜けだすことはできなかったのだ。
明治・大正・昭和の3代の天皇と異なり、平成という時代を担った今上天皇は、まさに革命的な変化を行った。政体の下に国体を置いたのである。具体的には「戦後民主主義体制下の天皇」という図式に置き換えたといっていい。天皇という制度は、民主主義体制のもとで人間天皇、あるいは象徴天皇としての役割を果たす存在だと考えたわけである。実はこのことは即位のときから、天皇自身が明らかにしていたともいえる。