松本:すごいねえ(笑)。そういう経験はあまりないなあ。いや、なかなか書けずに部屋をうろうろ歩き回るようなことはありましたけどね。

中川:阿久さんの場合はやっぱり「詞先」ですか。

大野:アルバムでは「メロ先」もありました。「あなたに今夜はワインをふりかけ」とか。

中川:ただ、79年になると阿久作品のヒットが急に少なくなり、阿久さんは休筆してしまいます。

 78年の年間ランキングでは、(1)「UFO」(2)「サウスポー」(3)「モンスター」と、阿久悠が書いたピンク・レディーの曲がトップ3を独占。4位は堀内孝雄「君のひとみは10000ボルト」(作詞=谷村新司)、5位はキャンディーズ「微笑がえし」(同=阿木燿子)。トップ20に阿久作品は5曲あった。だが、翌79年のトップ20に阿久の作品は1曲しかない。

 阿久のライバルはニューミュージックだった。アリス、中島みゆき、世良公則&ツイスト、原田真二……。聴き手は、プロの作詞家・作曲家がつくった「虚構」よりも、シンガー・ソングライターの等身大の音楽を支持するようになっていた。一方、細野晴臣、大瀧詠一、鈴木茂と組んだバンド「はっぴいえんど」の出身である松本隆は、「ニューミュージックの人」であった。

中川:80年に入ると、突如として松本さんの時代になります。たのきんトリオや松田聖子らのアイドル革命がありました。
松本:80年革命か(笑)。

中川:松本さん=松田聖子というイメージが強いですが、近藤真彦のデビュー曲「スニーカーぶる~す」の方が先なんですね。

松本:ドラマ「3年B組金八先生」で学ラン姿を見て「かっこいいな。このコ、面白いな」と思っていました。すでに田原俊彦は売れていて、ジャニーズ側は「近藤はもっと売れるから」って。「ノルマはミリオンですから」って関係者みんなが平然と言うわけ。デビュー作で100万枚なんて簡単じゃない(笑)。

大野:でも、売れましたよね。若かったし、新鮮なパワーを感じました。

中川:簡単じゃないノルマをこなすのがすごい。当時、マッチには会いました?

松本:ええ、歌入れの際に。本当にかわいかったね。礼儀正しく「こんにちは」って言っただけで周囲の空気が変わるような。だいたい売れるコって、オーラみたいなのがあるんです。全盛期の(松田)聖子なんて、後光が差してた(笑)。

中川:松田聖子は80年10月から88年9月までの間、24曲連続チャート1位という大記録をつくりますが、このうち17曲が松本さんの作品。松田聖子の持つ609曲の2割強にあたる139曲が松本さんの詞ですね。お気に入りは……。

松本:日替わりですよ。あるテレビ番組で「天国のキッス」と言ったけれど、それはその日の気分で、次の日は「スイートメモリーズ」だし(笑)。

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